日本のマスゴミが何故か報道しない歴史の事実。
垂れ流されるのは、反日側のプロパガンダばかりなのが
よく分かります。
過去の歴史と、その背景や国のあり方、民度などを勘案すれば
今現在、進行形と比較しても
何が真実かが、より浮き彫りになるようです。
それを報道しないのは
余程、「しない側」にとって不都合があるからでしょう。
葛根廟事件を知ってますか…日本人1千人を殺害したソ連軍の暴虐 「最後」の慰霊祭
先の大戦末期、満州に侵攻したソ連軍によって日本の避難民が虐殺された葛根廟(かっこんびょう)事件の慰霊祭が14日、東京都目黒区の五百羅漢寺で営まれた。事件の生存者らで作る興安街命日会が主催してきたが、高齢化によって解散し今回が最後の式典となった。(大森貴弘)
葛根廟事件は昭和20年8月14日に発生した。旧満州の興安街に住んでいた日本の民間人が避難の途中にソ連の戦車部隊に襲われ、1千人以上が犠牲になった。慰霊祭には遺族ら約50人が参列し、お経を読んで慰霊碑に手を合わせ冥福を祈った。
興安街命日会は昭和45年に発足し毎年慰霊祭を取り行ってきたほか、風化を防ぐため事件の証言集なども刊行した。平成13年には現地で法要を実施。中国政府が慰霊碑などの建立を許可しなかったため、テントを広げて仏像を安置した。
代表の大島満吉さん(87)は、会を設立した父の肇さんから引き継ぎ平成14年に就任した。事件で妹を亡くしており「悲惨さを知ってほしいと動いてきたが中心メンバーも高齢化し継続は難しいと判断した。できることは全てやったので心残りはない」と語った。
戦後78年を迎え、こうした遺族会の解散は全国で相次ぐ。慰霊碑の維持管理が難しくなるケースもあり、政府の調査によると民間建立の慰霊碑1万6千基のうち780基にひび割れや倒壊の恐れがある。
日本経済大の久野潤准教授(近代日本政治外交史)は「先人の歩みが伝わらなくなる危機であり、実体験の有無にかかわらず日本全体で受け継ぐことを考えるべきだ」と指摘。その上で「例えば葛根廟事件ではソ連・ロシアの本質が垣間見える。歴史を教訓に、ウクライナ侵攻という今の話も議論できるのではないか」と述べた。
妹は声を上げずに死んだ
大島満吉さん(87)には、幼いころの日本の記憶はない。2歳にならないうちに一家で満州に移住し、モンゴルとの国境近くの町、興安街で育った。建設業をしていた父、肇さんは満州で飛躍したいと考え、「満州の夢に吉を詰め込む」との思いを込め満吉と名付けた。
興安街には日本人が続々と移住し、病院やホテルなど建設ラッシュで父は大忙し。一つの現場で日本人と現地人が一緒に汗を流した。大島さんは「父もそうだが多くの日本人は満州語を学び、共に発展しようと真剣だった」と語る。スケートや釣りを楽しみ、日本より豊かな日々を過ごした。
昭和20年8月9日、ソ連が満州に侵攻。11日には興安街も空襲に見舞われ、3千人いた日本人は2つの集団に分かれて避難を始めた。大島さんの集団は40キロ離れた葛根廟まで徒歩で移動し、列車に乗る計画だった。女性や子供ばかり1200〜1300人だったとされる。
8月14日、なだらかな草原を歩いていると、後ろから「戦車だ逃げろ!」と声が聞こえ、黒い塊が轟音を立てて向かってきた。砲撃の音が響く中、10歳の大島さんは夢中で走り、窪みに飛び込み伏せた。母は幼い妹を背負い、6歳の弟の上に覆いかぶさった。
戦車は金属音をたてながら避難民を踏みつぶし、機関銃を手にしたソ連兵が姿を見せた。凌辱を恐れたのか女性が「私を殺して!」と叫ぶとソ連兵は周囲を乱射。ブスブスと銃弾が体に食い込む音が聞こえた。「目をつぶって早く行ってくれ、と願うだけだった」。
戦車に下半身を踏みつぶされ「せんべい」みたいになっている人が「苦しい」と声を絞り出していた。銃を向けられはじかれたように立ち上がり、姿勢を正したおじさんもいた。ソ連兵は彼らを次々に撃ち殺した。泣いていた2歳の男の子は、喉を短剣で一突きにされた。
止まっていた戦車が動き出し、エンジン音が遠ざかった。大島さんは窪みの中で起き上がり、あたりを見回した。母たちは無事だったが、父とははぐれていた。夕暮れまで父を探したが見つからない。母は「どうしようかね」とつぶやいた。
父の行方は分からない。子供は小さい。歩けば暴徒に襲われる−。母はけがをしていた男性から日本刀を借り、2歳の妹の喉元に当てた。「母さんもすぐ行くからね」。鮮血が飛び出し、妹は声をたてずに死んだ。母はほおずりし、傷口が見えないようにタオルをかけて拝んだ。
大島さんも自決を待っていると、一人一人のぞき込むように男性が近づいてきた。「お前たち無事でいたのか」。父だった。父は気落ちする母を強引に立たせ、中国人の民家に泊めてもらいながら満州の首都、新京へ向かった。
新京で難民生活を送った後、昭和21年に一家は引き揚げ船で日本に帰った。大島さん一家ら、この事件の生存者はわずか112人。両親を亡くし、中国人に引き取られた残留孤児も多く生まれた。犠牲者は1千人以上とされるが、正確な数は不明だ。
事件を目撃した日本兵の証言によると、ソ連軍は女性や子供を中心とした避難民の集団に対し、正規軍との戦闘のように組織的に待ち伏せして襲撃したという。一方、ソ連側の戦史では、葛根廟事件は一切触れられていない。