シュルレアリスムの認識について私の目を覚まさせてくれた一冊の本がある。巖谷國士の『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫)である。
この本の中で、一般的に「シュール」と言われている誤解されがちなことばについて触れられているが、シュルレエルとは「非現実」ではなく「超現
実」だということである。すなわち、「超スピード」や「超カワイイ」などと同じ意味合いであるので、現実がより強度になったもの、と説明されて
いる。さらに、仏語ではsurréalismeと一語になっているため、よく使われる「シュール・レアリスム」の中黒点やハイフンは不要、ましてや英語読み
の「レアリズム」ではないと。
また、シュルレアリスムの手法としてよく知られた自動記述」について、「自動記述」がスピードと共に変化するという面白い実験に触れられていた。
スピードが遅いときには、筆記されたものは物語によくある記述のように半過去形で書かれ、主語もあるが、スピードがアップするにつれ、主語は消滅
し、動詞が現在形になり、さらに進むと単語だけになるという。すべてが「オブジェ」と化してモノを張り合わせた「コラージュ」のようになるという
ことである。
一九二四年、アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」は、当初、自動記述による物語集『溶ける魚』の序文として書かれていた。その後、二
十世紀初めの歴史的な芸術運動として世界中に広まっていったが、そのシュルレアリスムの生んだ最も重要な、最も美しい作品と言われるのがこの『ナ
ジャ』である。
『ナジャ』は、現実の女性、ナジャとの出会いで現実の背後にある超現実の存在を実感する体験を語った、ドキュメントタッチの散文作品。ナジャに
出会ってからの部分は、日付も入っており、小説というよりは日記に近い。ナジャという名前は、ナジャ自身がそう名乗っていたもので、本名ではなく
ロシア語で希望を表す「ナディエジダ」から来ている。実名はレオナ・カミーユ・ギスレーヌ・Dという。
『ナジャ』が書かれたのは一九二八年。当初から賛辞を浴びていたそうだが、ブルトンは一九六二年に大幅に改訂した。私が読んだのは、改訂された
ものの翻訳であり、二00七年第六刷岩波文庫の巖谷國士訳によるものだが、それには本文と同じくらいの分量の注が付けられている。修正を加えられ
た部分や本文に出てくる事物・人物その他への非常に詳細な注解であり、その部分だけ取り出して読んでも興味深い。
また、この書にはいくつかの図版や写真、デッサンが添えられており、物語の背景を視覚的にも捉えることができる。中には、ナジャによるデッサン
も入っている。
一九二七年十月四日のものうい午後のこと、ブルトンは街でひとりの女を見かけ、ためらわず声をかける。その女は、「とても華奢な体つきで、ほと
んど地に足をつけずに歩いて」おり、ひどくみすぼらしい身なりをしていたが、声をかけると「事情はわかっている」といった顔つきで微笑む。それは
ブルトンにとって、驚異に満ちた日々の始まりであった。ナジャは娼婦で、リールの故郷の両親の元に預けている娘が一人いる。彼女は生活に困ってお
り、おまけに精神を病んでいる。けれど、「私はさまよう魂」と自分を語るナジャは、どこまでも自由であり、彼女の示唆に富むことばはブルトンに多
くの刺激を与える。不思議で謎に包まれた妖精のようなナジャ。ブルトンはパリの街を彼女と歩き回り、ある夜チュイルリー公園へやってきた。目の前
の噴水を見てナジャは語る。
「あれはあなたの考えることと、あたしの考えること。ほら、ふたついっしょに、どこからふきだして、どこまでふきあがっていくか、それでまた落
ちてゆくときのほうがどんなにきれいか、見てちょうだい。それからすぐに溶けあって、おなじ力にまたとらえられて、もういちどあんなふうに伸びあ
がって砕けて、あんなふうに落ちてゆく……こうやっていつまでもくりかえすのよ。」私は叫んでしまう。「なんだって、ナジャ。なんて不思議なんだ!
そんなイメージ、ほんとにどこからとってきたんだ? 僕が読んだばかりの、君が知っているはずもない本のなかに、ほとんどそっくりに表現されてい
るイメージじゃないか。」
まるで詩のようなことばである。パリの街に繰り広げられる奇跡のように美しい日々。けれど、それはまもなく終わりを告げ、ナジャとブルトンの間
は遠のいてゆく。ナジャは精神病院に送られ、最後は故郷のリールに近い療養所で癌のため三十八歳で亡くなった。ブルトンに「あなたは私の物語を書
くわ」と予言して。そして、ブルトンは『ナジャ』を書き、三十五年後何ゆえにか改訂した。
出会いというものは本当に不思議で神秘的なものだ。出会いは一つの世界と別の世界が衝突することだ。そして、混交し、エネルギーを生む。それは、
シュルレエルが発生する場所かもしれない。ナジャは詩も物語も書かなかったけれど、詩と物語を生きた。ナジャは生きた詩神であった。
最後にブルトンの魅惑的なことばをもってこの短い紹介文の終わりにしたい。この一文は本書の最後に置かれているものである。
「美は痙攣的なものだろう。それ以外にはないだろう。」