ショートショート「灯り」
あまりの空腹のため、僕は電車を途中下車してしまった。朝から会議が続いて、昼食を摂る時間がなかったせいだが、喧々諤々の会議ですっかり消耗してしまったためかもしれない。初めての駅で、電車のガード下の灯りに引かれてためらわずうどん屋に入った。「冷やしうどん」と頼むと一気に汗が噴き出してきた。真夏の熱気が頭の上からのクーラーですっと引いてゆく。上からは規則的に電車の轟音が降ってきた。
「お待たせしました、どうぞ」とうどんを運んできた女性の手の白く美しいことにまず目を引かれた。そして、
指にはめられていた大きなブラックオパールに。それらは、
その女性の白い割烹着姿にはあまりにも不似合いだったのだ。そして、僕はその女性の姿に見入ってしまった。深い霧が一瞬晴れていきなり視界が開けるように、僕の頭の中に突然蘇ってくるものがあった。
「あの女(ひと)だ!」
オパールの中で最も価値が高いブラックオパールは、黒系ダークカラーの中で虹色に輝く様々な色が美しく、一目見たら忘れることのできないほどの神秘的な魅力を秘めていると言われる。その幻想的に揺らめく色彩は、ひとつとして同じものはないと聞いた。
あの日、「この世でたったひとつの宝石、ぜひお勧めです」と、宝石屋の主人はブラックオパールを差し出した。まだそんな高価なものを買える力はなかったが、その魅力に惹かれ、僕は貯めた結婚資金をはたいて買ったのだった。「希望の石」という言葉にも惹かれた。僕たちはその頃、電車通りのすぐ近くの小さなアパートに住んでいた。このうどん屋のように、電車が通るたびに、轟音が響き、風が開け放した窓のカーテンを揺らした。
二人して行った宝石屋で彼女は「そんな高価なものはもったいないわ」と遠慮がちに言いながらも、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。白く長い指にブラックオパールが何と似合ったことだろう。
・・・あれからもう三十年。彼女はどこでどう生きてきたのか。どんなに探したか。
ただ、膨大な時間が経ったせいか、彼女は全く僕に気づかない。話しかけていいものかどうか、人違いかもしれない、そんな思いが頭をよぎる。
僕はレジでお金を払いながら、店をしきっているらしい老女に尋ねてみた。
「あの女は? とても綺麗な指輪をしていたけど・・・」
「彼女は記憶喪失なんですよ。このすぐ近くの公園で行き倒れていたのを人のいいうちの店主が見つけて、ここに住み込みで働くようになったんです。何でも大きな事故で記憶を失くしたとか」
やはり間違いはないだろう。すっかり髪も白くなり、かつての美貌は失われていたが、その楚々とした佇まいは変わっていない。
彼女の父は不動産屋だった。そして、ある時負債で身動きが取れなくなり、たくさんの借金を残したまま自殺してしまった。その直後だった、彼女が僕のそばから黙って姿を消したのは。父一人、子一人の家庭で、ほかに身寄りはないと聞いていた。それから躍起になって探したが、消息はまったく掴めなかった。
あれから三十年・・・。月日とともにいつしか僕の痛みも和らぎ、彼女のこともブラックオパールのことも僕の記憶から消えていた。
店から一歩出ると、外はもうすっかり暗闇が広がっていた。駅への道を歩きながら僕は奇妙な感覚に捉われていた。僕には、仕事を終えてこの店に入るまでの世界と、店を出た後の世界がまったく違う世界に見えた。記憶とは何だろう。僕の蘇った記憶は忘れていた僕の痛みを思い出させた。失った記憶が苦しいものであるのなら、彼女にとっては記憶を失くしたことは幸せだったかもしれない。彼女はもうあの小さなアパートのことも、僕のことも思い出すことはないだろう。
ふと、家で待っている妻のことを思った。彼女のことを何も知らない妻は屈託のない笑顔で僕を待っているだろう。家々の灯りはいつも忠実にその家に帰ってくる誰かを待っているものだ。
どの小説の中だったか忘れられない言葉があった。
「もう決して戻ることのできない場所に、僕らの消し忘れたランプがある」という言葉だ。
若いカップルが僕を追い越してゆく。一陣の風のように。真昼の暑さが幾分和らいだ通りに明るい笑い声を残して。
あまりの空腹のため、僕は電車を途中下車してしまった。朝から会議が続いて、昼食を摂る時間がなかったせいだが、喧々諤々の会議ですっかり消耗してしまったためかもしれない。初めての駅で、電車のガード下の灯りに引かれてためらわずうどん屋に入った。「冷やしうどん」と頼むと一気に汗が噴き出してきた。真夏の熱気が頭の上からのクーラーですっと引いてゆく。上からは規則的に電車の轟音が降ってきた。
「お待たせしました、どうぞ」とうどんを運んできた女性の手の白く美しいことにまず目を引かれた。そして、
指にはめられていた大きなブラックオパールに。それらは、
その女性の白い割烹着姿にはあまりにも不似合いだったのだ。そして、僕はその女性の姿に見入ってしまった。深い霧が一瞬晴れていきなり視界が開けるように、僕の頭の中に突然蘇ってくるものがあった。
「あの女(ひと)だ!」
オパールの中で最も価値が高いブラックオパールは、黒系ダークカラーの中で虹色に輝く様々な色が美しく、一目見たら忘れることのできないほどの神秘的な魅力を秘めていると言われる。その幻想的に揺らめく色彩は、ひとつとして同じものはないと聞いた。
あの日、「この世でたったひとつの宝石、ぜひお勧めです」と、宝石屋の主人はブラックオパールを差し出した。まだそんな高価なものを買える力はなかったが、その魅力に惹かれ、僕は貯めた結婚資金をはたいて買ったのだった。「希望の石」という言葉にも惹かれた。僕たちはその頃、電車通りのすぐ近くの小さなアパートに住んでいた。このうどん屋のように、電車が通るたびに、轟音が響き、風が開け放した窓のカーテンを揺らした。
二人して行った宝石屋で彼女は「そんな高価なものはもったいないわ」と遠慮がちに言いながらも、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。白く長い指にブラックオパールが何と似合ったことだろう。
・・・あれからもう三十年。彼女はどこでどう生きてきたのか。どんなに探したか。
ただ、膨大な時間が経ったせいか、彼女は全く僕に気づかない。話しかけていいものかどうか、人違いかもしれない、そんな思いが頭をよぎる。
僕はレジでお金を払いながら、店をしきっているらしい老女に尋ねてみた。
「あの女は? とても綺麗な指輪をしていたけど・・・」
「彼女は記憶喪失なんですよ。このすぐ近くの公園で行き倒れていたのを人のいいうちの店主が見つけて、ここに住み込みで働くようになったんです。何でも大きな事故で記憶を失くしたとか」
やはり間違いはないだろう。すっかり髪も白くなり、かつての美貌は失われていたが、その楚々とした佇まいは変わっていない。
彼女の父は不動産屋だった。そして、ある時負債で身動きが取れなくなり、たくさんの借金を残したまま自殺してしまった。その直後だった、彼女が僕のそばから黙って姿を消したのは。父一人、子一人の家庭で、ほかに身寄りはないと聞いていた。それから躍起になって探したが、消息はまったく掴めなかった。
あれから三十年・・・。月日とともにいつしか僕の痛みも和らぎ、彼女のこともブラックオパールのことも僕の記憶から消えていた。
店から一歩出ると、外はもうすっかり暗闇が広がっていた。駅への道を歩きながら僕は奇妙な感覚に捉われていた。僕には、仕事を終えてこの店に入るまでの世界と、店を出た後の世界がまったく違う世界に見えた。記憶とは何だろう。僕の蘇った記憶は忘れていた僕の痛みを思い出させた。失った記憶が苦しいものであるのなら、彼女にとっては記憶を失くしたことは幸せだったかもしれない。彼女はもうあの小さなアパートのことも、僕のことも思い出すことはないだろう。
ふと、家で待っている妻のことを思った。彼女のことを何も知らない妻は屈託のない笑顔で僕を待っているだろう。家々の灯りはいつも忠実にその家に帰ってくる誰かを待っているものだ。
どの小説の中だったか忘れられない言葉があった。
「もう決して戻ることのできない場所に、僕らの消し忘れたランプがある」という言葉だ。
若いカップルが僕を追い越してゆく。一陣の風のように。真昼の暑さが幾分和らいだ通りに明るい笑い声を残して。