新・アドリアナの航海日誌

詩と散文、日記など。

灯り

2024-10-25 15:29:44 | ショートショート
ショートショート「灯り」               


あまりの空腹のため、僕は電車を途中下車してしまった。朝から会議が続いて、昼食を摂る時間がなかったせいだが、喧々諤々の会議ですっかり消耗してしまったためかもしれない。初めての駅で、電車のガード下の灯りに引かれてためらわずうどん屋に入った。「冷やしうどん」と頼むと一気に汗が噴き出してきた。真夏の熱気が頭の上からのクーラーですっと引いてゆく。上からは規則的に電車の轟音が降ってきた。
「お待たせしました、どうぞ」とうどんを運んできた女性の手の白く美しいことにまず目を引かれた。そして、
指にはめられていた大きなブラックオパールに。それらは、
その女性の白い割烹着姿にはあまりにも不似合いだったのだ。そして、僕はその女性の姿に見入ってしまった。深い霧が一瞬晴れていきなり視界が開けるように、僕の頭の中に突然蘇ってくるものがあった。
「あの女(ひと)だ!」
 オパールの中で最も価値が高いブラックオパールは、黒系ダークカラーの中で虹色に輝く様々な色が美しく、一目見たら忘れることのできないほどの神秘的な魅力を秘めていると言われる。その幻想的に揺らめく色彩は、ひとつとして同じものはないと聞いた。
 あの日、「この世でたったひとつの宝石、ぜひお勧めです」と、宝石屋の主人はブラックオパールを差し出した。まだそんな高価なものを買える力はなかったが、その魅力に惹かれ、僕は貯めた結婚資金をはたいて買ったのだった。「希望の石」という言葉にも惹かれた。僕たちはその頃、電車通りのすぐ近くの小さなアパートに住んでいた。このうどん屋のように、電車が通るたびに、轟音が響き、風が開け放した窓のカーテンを揺らした。
 二人して行った宝石屋で彼女は「そんな高価なものはもったいないわ」と遠慮がちに言いながらも、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。白く長い指にブラックオパールが何と似合ったことだろう。
 ・・・あれからもう三十年。彼女はどこでどう生きてきたのか。どんなに探したか。
 ただ、膨大な時間が経ったせいか、彼女は全く僕に気づかない。話しかけていいものかどうか、人違いかもしれない、そんな思いが頭をよぎる。
 僕はレジでお金を払いながら、店をしきっているらしい老女に尋ねてみた。
「あの女は? とても綺麗な指輪をしていたけど・・・」
「彼女は記憶喪失なんですよ。このすぐ近くの公園で行き倒れていたのを人のいいうちの店主が見つけて、ここに住み込みで働くようになったんです。何でも大きな事故で記憶を失くしたとか」
 やはり間違いはないだろう。すっかり髪も白くなり、かつての美貌は失われていたが、その楚々とした佇まいは変わっていない。
 彼女の父は不動産屋だった。そして、ある時負債で身動きが取れなくなり、たくさんの借金を残したまま自殺してしまった。その直後だった、彼女が僕のそばから黙って姿を消したのは。父一人、子一人の家庭で、ほかに身寄りはないと聞いていた。それから躍起になって探したが、消息はまったく掴めなかった。
 あれから三十年・・・。月日とともにいつしか僕の痛みも和らぎ、彼女のこともブラックオパールのことも僕の記憶から消えていた。
 店から一歩出ると、外はもうすっかり暗闇が広がっていた。駅への道を歩きながら僕は奇妙な感覚に捉われていた。僕には、仕事を終えてこの店に入るまでの世界と、店を出た後の世界がまったく違う世界に見えた。記憶とは何だろう。僕の蘇った記憶は忘れていた僕の痛みを思い出させた。失った記憶が苦しいものであるのなら、彼女にとっては記憶を失くしたことは幸せだったかもしれない。彼女はもうあの小さなアパートのことも、僕のことも思い出すことはないだろう。
 ふと、家で待っている妻のことを思った。彼女のことを何も知らない妻は屈託のない笑顔で僕を待っているだろう。家々の灯りはいつも忠実にその家に帰ってくる誰かを待っているものだ。
 どの小説の中だったか忘れられない言葉があった。
「もう決して戻ることのできない場所に、僕らの消し忘れたランプがある」という言葉だ。
 若いカップルが僕を追い越してゆく。一陣の風のように。真昼の暑さが幾分和らいだ通りに明るい笑い声を残して。
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アディ

2024-10-25 14:39:54 | ポエム
「アディ」

そのとき男の声で
アディ と誰かが叫んだ
夜更けのメトロで
そして
どこからかジャスミンの甘い香りがして
赤いヒジャブで顔を覆った娘が
ホームを急ぎ足で駆けて行った
声の主を振りきるように

それは
旅の日のこと
異国の町での思いがけない出会い
わたしの目の前で
草原を自由に飛ぶ艶やかな蝶のように
娘は去って行ったのだった

それから随分経ったけれど
映画のワンシーンのように
そんなちいさな出来事を今でもよく思い出す
アディと呼んだ男は
あれからヒジャブの娘に会えただろうか と

ときにひとはそうやって
夢中で誰かの名前を呼ぶのだろう
わたしにもそんな日があったような気がする
蝶のように飛び去ってしまうものに向かって
声を限りに呼びかけたことが
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夏の名残の薔薇

2024-08-04 09:52:35 | ポエム
「夏の名残の薔薇」


夏の終わりに咲き残る
一輪の薔薇
日ごとの日差しに耐えながら

荒ぶる風に吹かれては
一輪の薔薇
なお高く空を仰ぐ

あれは心の奥にしまったままの
消えない夢
愛の忘れがたみ

はなびらにそっと触れる
夢の続きをなぞるように
愛の名残を惜しむように
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野いちご摘み歌

2024-07-28 22:15:12 | ポエム
「野いちご摘み歌」

牧人の角笛が
風に乗って聞こえる
草原を吹く風が
娘たちの歌をはこぶ

  君を思って
  千年の時が過ぎた
  私はもう年老いた
  愛しい君はどこに

野いちごを摘みながら
娘たちは歌う
風にゆれる髪 光る汗
篭には赤い野いちごの実

  君を待って
  千年の時が過ぎた
  季節は移り人は去り
  愛の日々はどこに

牧人の角笛が
山並みにこだまする
草原を吹く風が
遠い昔の歌をはこぶ
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雨の歌

2024-07-28 22:13:54 | ポエム
「雨の歌」

ラフマニノフの調べが
雨の音に混じる夜

ひとり小さな部屋で
君を思い過ごす

こんな夜は雨がいい
こんな夜はひとりがいい

ラフマニノフの調べが
立ててゆくこころの波

レモンソーダのグラスに
ランプの灯が揺れる

昨日までの夢を
雨が消していっても

こんな夜は雨が好き
こんな夜はひとりが好き
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ダスキン・ホフマン先生のことば

2024-07-25 05:39:13 | 今日の気になることば
詩は
『今・ここ』と永遠をつなぐこと」
「ことばの奥・世界の奥に行けるのは詩である」
「詩は虚無から意味を回復する」
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詩は

2024-07-14 08:52:55 | ポエム

詩は

詩は
見えない星のひかり
真っさらな地図帳
いつかなくした部屋の鍵 
道端にひっそりと咲く草の花

詩は
夏の野に唸るミツバチ
泣きつかれた子どもの涙
遥かな窓辺に灯るあかり
うっかり飲み込んでしまったコケモモの種

詩は
戒律のない伽藍
空を自在に泳ぐ魚
傷口に貼られた血止め草
そして
あなたとわたしを結ぶ神の手
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明日雨が上がったら 

2024-03-29 21:01:47 | ポエム
明日雨が上がったら            


明日雨が上がったら
コーヒーを飲みませんか
あの店で
明日雨が上がったら
レインコートを脱いで
あの席に座りましょう

この星の四十五億年の物語のなかで
私たちはつかの間
街灯のまわりを群れ飛んでいる
ウスバカゲロウのようなものだと
だからいっそう一日が愛おしいと
そんな話をしたことがありましたね
ずいぶん歳をとってしまったある日
ふふ 冗談みたいに笑いながら

明日雨が上がったら
コーヒーを飲みませんか
あの店で
そして
明るい春の陽射しのある窓辺で
二匹のウスバカゲロウの
小さな小さな物語を語りましょう
誰もしらないどんな本にも載っていない
ささやかな物語を
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メモラビリア

2024-03-28 06:04:55 | ポエム
メモラビリア(*)

月の海にうかぶ
椰子の実ひとつ
茉莉(まつり)花(か)の花香り
びろう樹ゆれる島

ふるさとは海のかなた
オレンジ実る南のくに
はだしの足をぬらす波
夕陽にきらめく波の面(おも)

ああ いつの日か
訪ねみん
君とともに

波が忘れていったのは
欠けた小さなさくら貝
ふるさとは時のかなた
はるかなる夢のかなた

椰子の実 椰子の実
あれからどこへ
行方もしれず波のまにまに
               *ラテン語 追想録
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舞踏会に行けないシンデレラ

2024-03-17 06:17:20 | ポエム
舞踏会に行けないシンデレラ

カボチャの馬車にのって
シンデレラは舞踏会へ行くものよ
どんな絵本にも
そう書いてある
そして
すてきな王子さまに出会うの

そんな物語を夢見ていたわ
けれどわたしは
舞踏会に行けないシンデレラ
今日も残業
カボチャの馬車じゃなくて
通勤ラッシュの満員電車

でもいつか
ガラスの靴をもって
探しに来てくれるかしら
美人じゃないけどわたしは
こころやさしいシンデレラ
灰のなかから
夢をみつけられる

カボチャの馬車にのって
シンデレラは舞踏会に行くものよ
そしていつかきっと
すてきな王子さまに出会うの


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物語詩「青い花」

2024-03-17 06:15:23 | ポエム
物語詩「青い花」

目次 手紙
   迷える羊
   青い花
   魔王の影
   道しるべ
   はるかなるポルトガル
   月の浜辺
   泉のほとり
   魔法のランプ
   愛は
   



手紙

ある日わたしに
届いた手紙
文字のない
真っ白な手紙

ひらくと
風の音がした
波の音がした
遠いくにの香りがした

ひらくと
誰かがわたしを
呼ぶ声がした
それはあのひとの声

すべてがわたしを
旅へとさそう
すべてがわたしに
旅立てという



迷える羊

わたしはストレイ・シープ
迷える羊
群れから離れて
野をさまよう
菩提樹のそばで憩い
せせらぎの水を飲み
星空の下で眠る

わたしはストレイ・シープ
迷える羊
きっとどこかで待っている
探し求めるひとは
どんなに遠くとも
いつかたどり着こう

わたしはストレイ・シープ
迷える羊
群れから離れて
野をさすらう



青い花

どこかに
はるかな荒野(あれの)に
咲くという
まだ誰も見たことのない
青い花

月のしずくをあびて
一夜(ひとよ)だけ
野に咲くという
青い花をさがして
旅だったひと
いまはどこに?

どこかに
はるかな荒野に
咲くという
まぼろしの青い花
それはどこに?


 魔王の影
 

暗い森をおおう
大きな影
あれは魔王
魔王の影
白いフクロウをお伴に
旅人を襲う
愛を憎む王は
愛し合うものたちを
引き離す
闇のなかを歩むわたしに
襲いかかる大きな影
黄泉の国へと
わたしを突き落とす
おそろしい魔王の影



道しるべ

人生は
道しるべのない旅
一通の手紙を胸に歩く
いまはただ
風と星を頼りに



はるかなるポルトガル

ゆっくりと
坂道をのぼれば
ひろがる美しい海

街には
ファドの歌声
オレンジの香り

はるかなる西の果て
ひとを訪ねて
ここまでたどり着いた

岬に佇めば
荒々しい風が
すべて忘れよという

ああ
ポルトガルの海よ
あのひとはどこに



月の浜辺

月の浜辺あるけば
潮風が頬をなでる
空にはまたたく
サザンクロス

月の浜辺あるけば
足元によせる細波(さざなみ)
寄せてはかえす
銀のレエス

眸とじれば
椰子の葉のざわめき
熱くよみがえる
ひとの面影




泉のほとり

泉のほとり
疲れたからだ休めて
冷たい水を飲む

水よ 水よ
空を映しているように
置いてきた
あの街を映してほしい

水よ 水よ
映してほしい
あのひとの姿を
これから歩む道のりを

この美しい水の鏡に
水よ 水よ
こころあらば


魔法のランプ

どこかにあるという
どんな願いもかなえる
魔法のランプ
暗い森の奥深く
ナイチンゲールの鳴く
樹の枝に
あるいはそれは
小川のほとりの蛍(ほたる)草(ぐさ)

どこかにあるという
どんな願いもかなえる
魔法のランプ
あるいはそれは
窓辺にともるちいさな灯り
あるいはそれは
時の扉のむこうに
ひっそりと咲く青い花

愛は

愛は駆けてゆくだろう
どこへでも
愛は超えてゆくだろう
時の扉さえ

愛は一通の手紙
愛は道しるべ
愛は心を映す泉
愛は魔法のランプ

そしていつかきっと
愛は見つけるだろう
さがし続けるひとにだけ
その姿をみせる
まぼろしの青い花を




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降り始めた雪に

2024-03-17 06:08:25 | ポエム
降り始めた雪に

ひらら ひらら
てのひらに
ひらら ひらら
並木の木々に
ひらら ひらら
家々の屋根に
ひらら ひらら
町いちめんに

いつのまにか雪が
真っ白に
世界を変えてゆくなら
いつのまにか雪が
町中を眠らせてゆくなら

この思いも
雪の中に埋もれて
ちいさな結晶になるだろうか
いつか
凍れる花のように
雪のなかに咲くだろうか
ひらら ひらら
ひとひらの
うつくしいことばになって
あのかたの胸に届くだろうか
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あなたに

2023-09-06 05:18:50 | ポエム
あなたに

せめて一篇でも
どこにもないうつくしい詩を
とどけたいとおもうのに

せめて一篇でも
だれよりもやさしい詩を
おくりたいとおもうのに

書ききれない
書いては消し消しては書く
思いを告げきれない恋文のように

きっとどこかに
置きわすれてきたのだろう
言葉のつまったたいせつな箱を

夕べの山畑でキジが鳴いた
夕陽のかがやくなか
声をかぎりに

そんなふうに伝えられたら
たった一行でいい
そんなふうに綴ることができたなら

あなたに贈るだろうに
この地上で偶然にも
おなじ時を生きているあなたに
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一本のコスモスのように

2023-03-26 17:10:58 | フォト・ポエム
一本のコスモスのように


一本のコスモスのように
風にゆられる茎でありたい
風にゆられる茎であっても
決しておれない茎でありたい

一本のコスモスのように
ちいさな花をつけたい
よごれた泥のなかでも
よろこんで咲いていたい

一本のコスモスのように
まあるい少女の手につまれたい
一人ぼっちの少年の口笛を
だまってきいていたい

一本のコスモスのように
町いっぱいをかざりたい
冷たい風のなかでも
灯りのように咲いていたい
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フランシス・レイもバッハも

2022-10-09 22:12:02 | ポエム
フランシス・レイもバッハもメンデルスゾーンも
あなたとは聴かなかった
ゴッホもマリー・ローランサンもモジリアニも
あなたとは見なかった

何と長い時間を別々に過ごしたことだろう
大都会の交差点の赤信号で止まったとき
となりにいたかもしれないあなた
わたしが駅のベンチに腰掛けていたとき
通り過ぎた電車のなかにいたかもしれないあなた

カップに淹れたてのコーヒーを注ぎ
ミルクを入れる
木洩れ陽をあびながらひとりで飲む
百年もないいのちの途中で出会い
そしてうまく触れ合えずに過ぎてゆくひとよ

フランシス・レイもバッハもメンデルスゾーンも
あなたと聴きたかった
ゴッホもマリー・ローランサンもモジリアニも
あなたと見たかった

コーヒーのように
こころはカップのなかには入りきれない
それは木洩れ陽のように
たださんさんと散らばるだけなのかもしれない

フランシス・レイとバッハとメンデルスゾーンが流れて
いつ知らず人生はやさしく通り過ぎる
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