サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

サブロー日記つづき

2006年05月25日 | Weblog
 畝を超えると急に空が開け、五月晴れの太陽が、この小さな集落を精いっぱい照している。「ここにもまだ人が居るぞー」と。現在四戸、ここは明治の終り頃まで、富岡村の中心地であり、役場、郵便局、駐在所が在った。安居川を遥か下に、こんな所に昔の往還が有ったのか、今日はその往還、「銅の道」を尋ねているのである。多分ここには店やが有り、馬を休めた馬子達で賑っていた事であろう。
 「先生お元気ですねえ」、川崎先生は近年体の調子を崩されたと聞いていたが、お元気に奥さんと、お茶を揉んでいた。
 幸い、丁度そこに、安居郷長の山中さんが居た。此の人なら安居の事なら何でも知ってる。今は街に出ておられるが。何と今もこの故郷に通って田んぼを作っている。本百姓の人でさえ、殆んどの人は田圃を捨てているのに、まったく偉い人よ。
「たかすけさんよ、ここから川内谷まで昔の道を伝うて抜けてみたいが、行けるろうかのう、おまさんは猪を追てよう知ちるろうが」。「うぅん行ける行ける。ここを真直ぐ、別れ道を下へ下へと行きよりさえすりゃあええ」、
 「どうもおおきに、行ってみる、、、」 先生方とも別れ、心配していた道もどうやら通れそう、二人は勇気百倍、勇んで出発、今日は、くりけいさんの謂う、地下足袋を履き足をかためている。「ハマちゃん、もう道も安心じゃあけ、山菜でもとりもって行こうや」彼もうなずく。
 よい道が続く、やがて無数の墓床、聴いた事も無い苗字もある。在所からⅠキロも来た処、ここには立派な大理石で墓床を作り、その上に大きな墓碑が何基も姿勢正しく座っている。昔より入江谷には大理石が産出されていたが。それにしても立派なものである。岩盤を背に、前には往還。豪農、郷長の権威をも顕しているのであろう、川崎、山中の字が見える。
 そこを過ぎても、そこそこの道が続いていたが、川内谷の御滝様(おおたびさま)の上あたりを過ぎた頃、下へ下への教えの通り行きよると、何と道が消えた、これは狸の悪さか?一瞬ドキンとした。数年前、誰やろ先生らあが迷って大騒動がいたが、ここは高山ではない、此の下何10メートルかには必ず県道が有るはず。いざと成ったら、真下へ滑りこける。腹は据わった。それにしても、真直ぐ、真直ぐと教えてくれた人、、、。二人は山菜どころか、日暮れまでに帰れるろうか、それが心配になった。ハマちゃんも心配そうに時計を覗く。
此処もやはり長い年月に、耕作や、植林で道が判らなくなったのであろう。二人は気を取り直し、今度は上へ上へと藪を潜る。有ったあった、姿は見えねど、ハマちゃんの声、彼は元気そのもの、道が判らなくなると、猟犬のごとく探し廻る。そして遅くて再々休むサブローに嫌な顔一つしない。よく出来た人物である。
 やっと四時前に、川内谷の影集落が見える畝に出た。ここには影の墓か所である。此の中に恋塚がある。もう五十年も昔かし、俳句会の吟行で、この恋塚を訪れた事があった。此の句会で、竹の谷の片岡素琴さんの「恋塚の一日を春の句に浸る」此の句が最高点であった。どうしてか、ここまで来てサブローの足が急にツリ始めた。痛い。歩けん。道に腰を落とし、痛さをこらえながら、遥か過ぎし俳句会の思出に浸っていたのである。ハマちゃんは、もう県道の車で空腹を満たしていた。