サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

サブロー日記  晩酌のあと

2006年11月22日 | Weblog
サブロー日記     晩酌のあと
 待ちに待った日が来た。
 10月号広報「によど川」に「記念樹の苗木プレゼントと」の広告があった。よっしゃ昇竜の滝を望む、滝見カーブの左手に大きなケヤキの木を一本ほしい。時季には滝に併せて美しい紅葉が楽しめる。早速応募。すぐに11月21日に取りに来いとの通知。その準備が一苦労、藪を薙ぎ倒し3メートル四方を整地し、1メートル四方の穴を掘り、堆肥を1袋買って、この日を待った。山行きの車の荷物を整理し、大きなロープを準備。もしこれに積めなかったら誰かにトラックを借らねば、、、いさんで家を出る。出がけに、かつ母が、新聞の切り抜きを見せ、おじいちゃんが日下辺で逢うようslの汽車に逢えるかも、と言う、心は樹の方であったが、それも良かろうと、デジカメを持つ。よし、あの日下のこっちの陸橋で、上から写しちゃろう、
其処には先着お一人様がいた。いかん網がありますぞね、とその人は引き返して来ていた。やはりこれでは撮れん。線路を跨いで向こう側に降り、幽霊が出るとか出ないとかの家の処で構えた。そこは岡花駅の構内であった。カメラマンは二人、それにslの腕章をした人が居て線路にあまり近づかないように、との注意を受けた。
遠くに汽車が見えて来た。二人の為にslも汽笛を鳴らし、もくもくと煙を出してはくれたのだが、、、。傑作を撮ろう、ハマちゃんに負けない。
  
伊野の合同庁舎に着いた。どれほどの物がもらえるろう?、受付で募金もさせられた。はい、と差し出された苗木、驚いた、ものが言えん。ナスかトマトの苗を入れるポットに、かわいらしい苗がすまない顔をして立つていた。
 有難いことよ、一生懸命のサービスなのであろう。お陰で植えるのは非常に楽であった。我輩の思い込みがいかざった。


サブロー日記 名の川郷逃散筆記

2006年11月22日 | Weblog
サブロー日記 名の川郷逃散の道   サブロー日記   名の川郷逃散の道  
今まで逃散と言えば、天明の池川百姓一揆のことばかり頭にあって、他国の事まで手を伸ばす気と、時間が無かったが、今回池川応援団が水の峠を中心に「逃散の道と」名付けて土佐から予州への道、予州高山通りを再開発し、色々の歴史を秘めたこの往還を永久に残そうとしている。してみると、この道を通って逃散したのは池川の百姓ばかりではなく、旧名の川村の百姓も再三ここを通って逃げている。特に町村合併で吾川も仁淀も池川もひっくるめて考えなければならなくなった。
 サブローは一日(ひいとい)のこと、思い立ってまだ行ったこともない吾川側からの逃散の道、その地区の様子を探ってみたいと思った。
その元となるものは、池川の(安居)、安居狩山番人、大庄屋、山崎家に伝わる古文書より「名の川百姓逃散筆記」を竹本源治先生が発見?、校訂、それを活字にする事により、世に知られる事となったのである。
 この逃散は、池川の逃散と内容を異にしている。ごく簡単に説明しておこう、天保十三年七月五日、名の川郷、大庄屋、小野庄右衛門の貢物取立てに関し不審を唱え、遅越庄屋、藤崎命平、と大尾口、番人庄屋、上岡下助両人が、名の川郷の百姓を煽動し、事を起こそうとした。ところが、藩当局の察知するところとなり、両名に厳罰を下した(獄死、自殺切腹)。一方百姓共もその罰の及ぶことを恐れ松山藩久万の大宝寺へ三百二十九人もの百姓が逃散したのであるが。この人々は、差し向けられた土佐藩の捕吏によりことごとく逮捕された。この人々も皆、水の峠より、一里八丁七曲りの雑誌の予州高山通りを抜けて、久万の大宝寺へ逃散したのである。
 そこで、まだ行った事も、見た事も無い関係各地の探訪を試みた。
 先ず藩政時代に在ったと言れる田村の番所は?。地下の古老に聞くと、何と今の本村に在る老人ホーム、吾川荘であるとの事がわかった。これで一件落着。次に宗津の番所は?、上がる上がる。急な狭い坂道、はるか空であった。教えられてその家に伺うと、電灯の下で奥さんらしき人が珍しくミシンを踏んでいた。「ここがそうですよ、、、、何も書き物なんか有りません」軒下にはきれいな菊の花が作られていた。表札に隅田栄吉と書かれ、その後三四人の名前が連なっていた。「番所跡」との標柱を立ててもらいたいですねえ、、、」と希望を述べて辞す。これで宗津の番所跡が確認できた。
この上に在ると言うお宮さんまで行ってみた。その道筋に何と大きな牛の子くらいの猪が何頭も飼われていた。昔猪を飼っていると、山から野の猪がやって来て交尾した。との話を聞いた事があったがここだな、なるほど、と納得。珍しそうに我輩をにらんでいた。
お宮さんは大木に囲まれ静寂の中鎮座され立派なものである。村の豊かさを感んじる。
 帰りはエンジンブレーイキをかけ恐る恐る降りて来た。
 
 町の支所で買った仁淀川町全図を見ながら本村の上を横切る。この地図の通り、遅越の方へ抜けれるろうかと心配である、人に聞こうと思っても、何キロ走っても人間には行き会はない、心配しつつも橘谷をぬけ遅越らしき集落の見えるうねに来た。宗津程には無いようなが、まだまだ上え上がって行かんといかん、行けるろうか?、、、 やがて人家が数軒急傾斜地に貼り付いている。幸い畑でおしゃべりしていたご婦人に尋ねることが出来、昔の庄屋さん跡を教えてもらった。この遅越から天保の逃散の時は九十人もの人が参加していたのである。
 そこは集落を見下す、さすが庄屋宅。ご主人は大きな山芋を掘っ来て洗っている最中、だが快く応対して下さる。話の中でびっくり、我輩の父が、その昔、この家を訪ねたことがあると言う、このご主人(片岡輝夫さん)の父親さんの時代である。縁は異なもの、その親父さんは、片岡喜與隆さんと言われ、「吾川村奇談集」なるものを発刊されていた。名の川郷の物知り博士である。吾が父も其の事でお伺いしたのであろうか?。もう三十年も昔の事である。その小冊子が最後の一冊が残っており、お借りすることが出来た。来た甲斐があった。
 そして驚いた事に、この遅越えにも番所が有ると言う、この集落の上の方と言うが行かねばならない。名の川越えの峠より更に上がる。道は悪い。こんな事ならハマちゃんを誘ってくればよかった。                      其処には立派な石碑が建てられていた。やはり水の峠への道である。
 折り返し元の峠のお宮さんで弁当を開き、これからの行く末?を案ず。お宮へミカンを一つ供える。発車すると、なんと直ぐ其処は大平と言う集落であった。良さそうな環境、相変わらず道は急峻、羊腸の小径とは此のこと、名の川中津渓谷へ降りて行くのである。途中迷って人家の庭先に降りて来た。狭い急な道をやっとバック。やっとの思いで「ゆの森」温泉の屋根が見えて来て一安心。ここには再々来て付近の道はよく知っている。
 北川である。この渓には初めて。この北川は大規模林道から見えるはず。何とか水の峠への旧道、登り口を確認。
 折り返して津江にも入る。ここも初めての事。入り口案内板が変わっていて面白い、参考にすべし。ここにも水の峠への登り口が有るはず。これも確認。そして最後、上名の川中奥。ここでもカラ池への登り口を確認。確認といっても地図と照らし合わせて自分で納得。以上で冒険?の一日が無事終わった。今日は満足の一日であった。感謝。