西 遊 記 2
桂林には夕闇8時に着く。ネオンが川面に映り夜の街は賑わっていた。ここは中国屈指の景勝地、秦代より東南アジアへの要衝であり、緯度は台湾の台北あたり、気候は温暖。レストランで夕食してホテルへ。
どうも中国のビールはおいしくない。飲みそめてないからでもあろうが物足らん。ホテルの冷蔵庫で独りで呑み直し、ちょつとキツイ酒を。よく眠れて20日は待望の璃江下り。
ホテルよりバスに乗り1時間。車窓には早くも奇岩の山々が無数に見える。現地の添乗員、羅さんが、この山々幾つあると思いますか?の質問に、私達思い思いに答えたが、添乗員の答えは、数えても数え切れず、山ばあ有る。との答えであった。この道筋には、池川の昔のままの田植え風景が見られ懐かしく思った。ただ牛でなく、水牛を使っていた。
やがて船着場、竹江に到着、なんと驚き。日本の長良川の鵜飼舟を想像していたのだが、何と100人、200人も乗れる大きな船が処ろ狭しとひしめき合っていた。乗船客も呉越どころか万国の人の集まり。私達の予約船はやや小さい70人ほどの船だった。日本人が半分くらい、後は西洋の人らしい。やがて出港、上の甲板に出てみる。両岸には竹林が連なり、その隙間から山村の農家の家並が見え隠れする。岸に出て漁をする人、洗濯する人。泳いでいる人、水は50センチくらいの透明度であった。4時間余りの川下りであったが、途中昼食が出た。サブローはビールでは物足りないので桂林名酒、「桂林三花酒」の焼酎を注文、皆さんにも勧める。料理も多く今までの食事の中一番おいしかった。で全く退屈せず。奇岩奇峰を眺めつつ川の流れに乗った。サブローは同行の日本語を習っていると言う学生のアルバイトに写真を写すよう頼んでいたので、再々甲板に引張られ写真を写された。中でも外人と意気投合して一緒に写真におさまったことは、吾も世界の中の一人だなと、自負心を感じた。
4時間の川下りも退屈せず、やがて終点、陽朔(ようさく)と言う街に着き、今度は、これまた素晴らしい鍾乳洞。「蘆笛岩」(ろてきがん)に、此処にはお土産店が小さな街をなしていたが、それよりもアブの群れ?のように手に手に写真を持って「千円、千円」を連発しながら、襲って?来る売り子には閉口した。洞窟は龍河洞よりも、秋吉洞よりも勝るとも劣らないものであった。桂林はこれで鬼に金棒。天然の観光地を持ち益々発展するであろうと想った。市内に帰り゜「像鼻山」を観る。桂林は市中を守るように奇岩が囲み、洞窟がある。不幸な日中戦争で日本軍はこの街を攻めた。池川の余能の、今は亡き梅原忠保さんの体験記には、
「桂林、桂林へと進む。桂林を流れる川のむこうは蒋介石が千年の要塞と言っている様に石灰岩の洞窟に銃眼を作り下を見てバリバリ弾を撃ってが来る。、、、、川に架かる大きな橋を渡ってⅠ大隊が市内に突入すると言うものであった。、、、、、重機を持って側溝にうずくまった。指示が有れば向こうまで走るというものだった。吾が命もこれまでと思った。、、、、、、、ピ、ピ、ピ、よし行くぞ! と其の時真っ赤な火が横に走った。大音響と共にあの大きな橋が爆薬で火を噴いて舞い上がった。ぞっとした。やれやれ命拾いした。やがて桂林は200門の大隊砲により総攻撃され陥落した。」
サブローはこの戦跡も観たかったのだが、今は日中友好の時代、添乗員の羅さんには戦争のことは質問すら出来なかった。周囲は、あの戦争を知らない人ばかりである。
かえりのバスに乗る。添乗員は今夜の夜の観光を案内し、勧めるのだが皆さん疲れて誰も参加の希望者は無かった。そしてホテルで、 中国流の足のツボのマッサージをしきって勧める。サブローは洞窟の見学で脚が痛い、川で鍛え、安居渓谷の滝で鍛えていたのだが年には勝てん。マッサージを頼むこととした。夕食後風呂に入り、予約の時間にフロントに行くと羅さんが待っていた。ロビーの奥まったところに、数部屋に別れその一室に入れられる。値段は200元、日本円で3.400円程だ。支払いが済むと、羅さんが出際に「ゆっくり楽しんでくださいよ! ?」サブローは一瞬ドキッとした。ひょっとと思った。もしかとも思った。やがて若い女の娘が桶を抱えて入って来た。桶の中には薬草を煎じた液が入っていた。これに足を10分ほど浸し、それから足の裏のツボを一つ一つ指圧しもんでゆく、気持ちのいいものであった。心配? した事も無く足も軽くなりわが独房にかえる。
明日は上海だ。
桂林には夕闇8時に着く。ネオンが川面に映り夜の街は賑わっていた。ここは中国屈指の景勝地、秦代より東南アジアへの要衝であり、緯度は台湾の台北あたり、気候は温暖。レストランで夕食してホテルへ。
どうも中国のビールはおいしくない。飲みそめてないからでもあろうが物足らん。ホテルの冷蔵庫で独りで呑み直し、ちょつとキツイ酒を。よく眠れて20日は待望の璃江下り。
ホテルよりバスに乗り1時間。車窓には早くも奇岩の山々が無数に見える。現地の添乗員、羅さんが、この山々幾つあると思いますか?の質問に、私達思い思いに答えたが、添乗員の答えは、数えても数え切れず、山ばあ有る。との答えであった。この道筋には、池川の昔のままの田植え風景が見られ懐かしく思った。ただ牛でなく、水牛を使っていた。
やがて船着場、竹江に到着、なんと驚き。日本の長良川の鵜飼舟を想像していたのだが、何と100人、200人も乗れる大きな船が処ろ狭しとひしめき合っていた。乗船客も呉越どころか万国の人の集まり。私達の予約船はやや小さい70人ほどの船だった。日本人が半分くらい、後は西洋の人らしい。やがて出港、上の甲板に出てみる。両岸には竹林が連なり、その隙間から山村の農家の家並が見え隠れする。岸に出て漁をする人、洗濯する人。泳いでいる人、水は50センチくらいの透明度であった。4時間余りの川下りであったが、途中昼食が出た。サブローはビールでは物足りないので桂林名酒、「桂林三花酒」の焼酎を注文、皆さんにも勧める。料理も多く今までの食事の中一番おいしかった。で全く退屈せず。奇岩奇峰を眺めつつ川の流れに乗った。サブローは同行の日本語を習っていると言う学生のアルバイトに写真を写すよう頼んでいたので、再々甲板に引張られ写真を写された。中でも外人と意気投合して一緒に写真におさまったことは、吾も世界の中の一人だなと、自負心を感じた。
4時間の川下りも退屈せず、やがて終点、陽朔(ようさく)と言う街に着き、今度は、これまた素晴らしい鍾乳洞。「蘆笛岩」(ろてきがん)に、此処にはお土産店が小さな街をなしていたが、それよりもアブの群れ?のように手に手に写真を持って「千円、千円」を連発しながら、襲って?来る売り子には閉口した。洞窟は龍河洞よりも、秋吉洞よりも勝るとも劣らないものであった。桂林はこれで鬼に金棒。天然の観光地を持ち益々発展するであろうと想った。市内に帰り゜「像鼻山」を観る。桂林は市中を守るように奇岩が囲み、洞窟がある。不幸な日中戦争で日本軍はこの街を攻めた。池川の余能の、今は亡き梅原忠保さんの体験記には、
「桂林、桂林へと進む。桂林を流れる川のむこうは蒋介石が千年の要塞と言っている様に石灰岩の洞窟に銃眼を作り下を見てバリバリ弾を撃ってが来る。、、、、川に架かる大きな橋を渡ってⅠ大隊が市内に突入すると言うものであった。、、、、、重機を持って側溝にうずくまった。指示が有れば向こうまで走るというものだった。吾が命もこれまでと思った。、、、、、、、ピ、ピ、ピ、よし行くぞ! と其の時真っ赤な火が横に走った。大音響と共にあの大きな橋が爆薬で火を噴いて舞い上がった。ぞっとした。やれやれ命拾いした。やがて桂林は200門の大隊砲により総攻撃され陥落した。」
サブローはこの戦跡も観たかったのだが、今は日中友好の時代、添乗員の羅さんには戦争のことは質問すら出来なかった。周囲は、あの戦争を知らない人ばかりである。
かえりのバスに乗る。添乗員は今夜の夜の観光を案内し、勧めるのだが皆さん疲れて誰も参加の希望者は無かった。そしてホテルで、 中国流の足のツボのマッサージをしきって勧める。サブローは洞窟の見学で脚が痛い、川で鍛え、安居渓谷の滝で鍛えていたのだが年には勝てん。マッサージを頼むこととした。夕食後風呂に入り、予約の時間にフロントに行くと羅さんが待っていた。ロビーの奥まったところに、数部屋に別れその一室に入れられる。値段は200元、日本円で3.400円程だ。支払いが済むと、羅さんが出際に「ゆっくり楽しんでくださいよ! ?」サブローは一瞬ドキッとした。ひょっとと思った。もしかとも思った。やがて若い女の娘が桶を抱えて入って来た。桶の中には薬草を煎じた液が入っていた。これに足を10分ほど浸し、それから足の裏のツボを一つ一つ指圧しもんでゆく、気持ちのいいものであった。心配? した事も無く足も軽くなりわが独房にかえる。
明日は上海だ。