サブロー日記

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草鞋を履いた関東軍   サブロー日記   13

2008年02月14日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍  サブロー日記  13      2008.2.10

  昭和20年、私達は二度目の春を迎えた。二度目だけに落ち着いて四囲の自然の動きがよく観察できた。冬の寒さが厳しいだけに春の訪れは又格別である。この満州の広野にも日本の田舎のように一番先に芽をだして来たのはノビルであった。これには驚いた。「今日はノビル狩りだ」全員重い防寒服をかなぐり捨てて大地に四散し、快い春風をうけ、故郷の匂いのするノビルを一本一本感慨に浸りつつ引き抜くのである。集まったノビルは炊事当番が大豆油を使いおふくろの味の様に調理し夕食に添えられた。何と郷愁にひたるひと時であったことか、、、、。満州の春は急ピッチである。満州桜、芍薬、色とりどりの百合、その他名も知れぬ花々、特に菖蒲の一種であろう花は何10アールもあろう広い湿原に咲き誇る様は到底日本では見られない光景であった。
 このように大自然の春は訪れたものの、戦局は次第に怪しくなり中隊本部前の告知板には硫黄島の玉砕。南満州の被爆等暗いユースが多くなって来た。我が広瀬中隊も様相が急変。西森、浅利両隊員の召集、川村小隊長、藤原隊員はハルピンの特務機関(関東軍諜報機関)へ。藤野幹部は現地召集で関東軍へ。筒井小隊は蘭嵐の兵器工場へ。他の2個小隊は奉天へ。残ったのは広瀬中隊長、横田小隊長の率いる2個小隊のみとなった。
 ここで中隊の中でも一寸した事件が起きた。二人が召集になったので、その送別会を4.5人の隊員が献立、幹部に内緒で中隊の仔豚を殺し、満人より買ってきたチャンチュウでお祝いした。仔豚を1頭2頭殺しても幹部には分からないのであるが。その豚の頭を隊舎の天井裏に隠していて、それが中隊長に見つかり。中さんをかんかんに怒らせた。勿論強いお仕置き受け、さらに内地の親に弁償するよう通達を出したという。これには親も吃驚。「息子は貴中隊に預けてあるので中隊長の責任で監督、教育してくれ」、との返事が来たとの噂。私たちも拍手、胸をなでおろしたのである。
 やがて湿地の柳の蕾みがほころびはじめたある日、また新京への出張を命じられた。今度は5名である。目的は寧安訓練所本部の要請でオンドルに使うロストル(火格子)である。重い鉄の鋳物である。これをはるばる新京(長春)まで行って購入しなければならないのである。そしてそれを各自背負って運んでくるのである。でも私達にとってはまたとない新京への見学旅行であった。三郎はついこの前ハルピンへ隊友を介護しながら送ってきたばかりであったので案内の役にもなった。相変わらずむんむんした、いいようも無い車内の臭い、そして、満人で混雑のその中へと乗り込む。やがて汽車は、その大きな動輪を力の限り回転させながら西へ西へと走る。この汽車には、この前見たようなクリーは乗ってなかった。
 一夜明けて、やっと新京駅に着く。日本は、関東軍は、この新天地満州の首都を此処に決め。昔、長春と言って蒙古王の牧場であった。この荒野に、近代的な新都市を創るべく、先ず、そこに想うがままに主要な道路をつくり、そこに行政機構の建物。真っ先に関東軍司令部を、その周りに国務院。宮内府。警察、司法とその他の公署を建設。この厳めしい建物を中心に我先にとあらゆる企業が進出し今では人口30万と言われていた。其の内日本人6万。勿論ここの宮内府には満州国皇帝となった溥儀(清朝12代目、ラスト、エンペラーであった)を元首としてすえられていた。
 私たちはこの新興都市、特に広い、升目のように整備された道路に驚かされた。私達の宿舎は街はずれの、満映会社の近くであった。この撮影所には今、あの有名な女優、李香蘭が活躍しているはずであった。
 その翌日は一日中自由行動を許された。さあどうする。この大都市の中に放り出されても、西も東もわからない私達は何をして過ごすか?。お互い小使いは5円そこそこ、心細い限り、結局街に出て映画を見ようと言う事となった。街の中心地に行くにはバスに乗らなければならない。バスが動き出すと一人の隊員が「皆々しゃがんで足元を見てみい、鋏の入ってないバスの切符がいっぱい落ちょる」、、。まこと有る。掃除もろくにしてないのか、このバスの床には、まだ使える切符があちこち落ちていた。こんなもの拾う人も居らないのだろう、私たちは何枚かづつ拾い、おおいに役立った。やがて繁華街に到着。早くも、もう昼飯を食おう、安くて50銭。うまそうなのは1円もする。誰かが食い逃げしょう、との提案。そうしょう、、、。話は一決。世間知らずの私たちであったが。当時日本人が如何に満人をナメてかかっていたかである。私たちは満人を、満コ、満コとさげすんで言っていた。上等の店では出来ないので、それなりの飯店を探す。よし此処へ入ろう、店の中は案外広く、天井からは豚の頭をはじめ、色々の肉片が処狭しと、生のまま吊り下げられていた。一杯60銭のどんぶりものを注文。我々のほかにもお客が4.5人居た、これなら逃げられるぞー、と皆、目で合図する。早く食うた2人がトイレに行く格好をして席を立つ、三郎も遅れてならじとその後に続く、トイレの細まった通路から3人は街に出た。それ急げと走る。生れて初めての悪事である。振り向いても、振り向いても、後の2人は出てこない。3人はどのくらい逃げたか?、、、。もうよかろう、やっと胸をなでおろす、しかしあの2人はどうして居るだろう、心配。私達は無事?逃げたものの追っての心配もある。この街ではとても暢気に遊ぶ気にはなれない。見たかった映画館にも入らず、先に来たバスで宿舎に帰ることとなった。折角の新京の大都市に来たのに、何たる一日であった事か反省しきり、夕方後の2人が帰ってきた。あの後二人は私達の食費も払わされたが、映画も観、街の見物もして楽しい一日を過ごして帰ってきた。     つづく