草鞋を履いた関東軍 15 サブロー日記
20010.11.13
それは昭和20年8月12日であっただろう。突如として全員集合のラッパがスカスカと鳴った。何か不吉な予感を感じつつも本部前の広場に集合した。やがてわが広瀬中隊長が慇懃な面持ちで、「皆よく聞け、ただ今訓練所本部より明朝全員が当分間の食糧と身の回り品を持って訓練本部に集合せよとの連絡があった。その他の私物所持品は行李に納め、兵器庫の裏にある空いた幹部宿舎に入れておく事、牛馬には布団を鞍にして積めるだけの食糧を積み集合する事、勿論銃、弾、防毒面を携帯する事。」
何が起こったのだろう?さっぱりわらないが、やっぱりソ連との戦争が始まったのだろうか、なぜここを出なければならないのか、最前線へやられるのだろうか、私達にはその実情をなにも知らされなかった。おそらく幹部も知らないのだろう、私達は言われるままにその準備を始めた。自分の行李を棚から下ろし其の中の一品一品を、持って行くもの置いて行く物を区別する。もしかするともう此処には戻れないかも知れん。誰も言わないがそんな気がする。重いから置いて行こうと一度は行李に収めた三年間の日記帳をまた引き出しリュックに詰め込む。どれもこれも自分にとっては大切な物ばかり、ふと日記帳を包んでいた古新聞に目をやると、ありゃあ此の人が戦死している。私は膝を組みなおしてこの古新聞を抱え込む。此の新聞は半年ほど前故郷の家から送って来てくれた小包を包んでいた古新聞である。『戦死者、池川町楮原 山中鯉之助〇〇等兵』と書いてある。三郎はこの鯉之助と言う名前が珍しかったのでよく覚えている。私が義勇隊に入隊する半年ほど前、狩山小学校への通学道に渡辺と言う店屋があり、此の店は製紙原料も取り扱かっていた。その店屋の前の石垣に、かみそ(製紙原料こうぞ)が数丸立て掛けてあり、その名札に山中鯉之助と書いてあった。そして間もなく此の人を出征兵士として全校生徒と民が、山中鯉之助と書いた大きな幟と、日の丸の小旗を持って見送った。 私しは此の人の名前を前もって知っていたので万歳の声も一層力をこめて送った事を昨日のように思い出したのである。その人が今この新聞に戦死として出ている。あの日の、日の丸の波、そして真っ白い楮の丸ヶ、あああの人が戦死したのか、私は戦争と言うものはどこか遠くの方の出来事のように思っていたが、知った人が戦死すると、明日には往かねばならない我が身のことが妙に戦争とか戦死とか身近にひしひしと感じられる。三郎は此の人の写真に見入っていた。「おーい中平早うせんか !」小隊長の声である。私は急いで行李を縛り上げ官舎へと運んだ。そこには隊員の行李が山と積まれていた。中にはペシャンコの行李もある。これは満人とマイマイ(物々交換、私物を持って隊を抜け出し近くの満人に行って菓子等と交換)の選手?だったのであろう、私はこれ等の行李に又帰って来るまで無事にいてくれよ、と念じつつ官舎を出た。
せっぱ詰まったような朝があけた、、、、、、。 今朝は集合ラッパがいやに落ち着いている。牛馬には積める限りの食糧その他を積み、我われも一品でも多くの物をリュックに詰め込んだ。豚も何10頭も居たのだがこれを連れて行くことは至難のわざで、置いて行かねばならない、まことに惜しい事だ。こんな事なら早ょう食わしてくれれば良かったのに。先に中隊では豚殺事件があった。数人の隊員がひそかに豚を殺し、年上の隊員の召集を祝って送別会を行なった。これが幹部に知れて大問題になり、内地の親元まで知らされる事件があった。今はその大事な豚をどうする事も出来ない、すぐに満人に捕っていかれるであろう。やがて牛馬を先頭に私達はぎっしり詰まったリュックを背負い、水筒、防毒面、チェッコ銃。実弾50発、これが重い又防毒面、これがかさばり何とも始末が悪い。チェッコ銃は支那軍の戦利品である。日本の三八銃より良いと言われる。特に機関銃は当時技術の国であったチェッコスロバキヤ産は優秀であった。重い重いとあえぎながら訓練本部へのなだらかな稜線に登り詰める。もう足はがくがくであった。 続く、、、
20010.11.13
それは昭和20年8月12日であっただろう。突如として全員集合のラッパがスカスカと鳴った。何か不吉な予感を感じつつも本部前の広場に集合した。やがてわが広瀬中隊長が慇懃な面持ちで、「皆よく聞け、ただ今訓練所本部より明朝全員が当分間の食糧と身の回り品を持って訓練本部に集合せよとの連絡があった。その他の私物所持品は行李に納め、兵器庫の裏にある空いた幹部宿舎に入れておく事、牛馬には布団を鞍にして積めるだけの食糧を積み集合する事、勿論銃、弾、防毒面を携帯する事。」
何が起こったのだろう?さっぱりわらないが、やっぱりソ連との戦争が始まったのだろうか、なぜここを出なければならないのか、最前線へやられるのだろうか、私達にはその実情をなにも知らされなかった。おそらく幹部も知らないのだろう、私達は言われるままにその準備を始めた。自分の行李を棚から下ろし其の中の一品一品を、持って行くもの置いて行く物を区別する。もしかするともう此処には戻れないかも知れん。誰も言わないがそんな気がする。重いから置いて行こうと一度は行李に収めた三年間の日記帳をまた引き出しリュックに詰め込む。どれもこれも自分にとっては大切な物ばかり、ふと日記帳を包んでいた古新聞に目をやると、ありゃあ此の人が戦死している。私は膝を組みなおしてこの古新聞を抱え込む。此の新聞は半年ほど前故郷の家から送って来てくれた小包を包んでいた古新聞である。『戦死者、池川町楮原 山中鯉之助〇〇等兵』と書いてある。三郎はこの鯉之助と言う名前が珍しかったのでよく覚えている。私が義勇隊に入隊する半年ほど前、狩山小学校への通学道に渡辺と言う店屋があり、此の店は製紙原料も取り扱かっていた。その店屋の前の石垣に、かみそ(製紙原料こうぞ)が数丸立て掛けてあり、その名札に山中鯉之助と書いてあった。そして間もなく此の人を出征兵士として全校生徒と民が、山中鯉之助と書いた大きな幟と、日の丸の小旗を持って見送った。 私しは此の人の名前を前もって知っていたので万歳の声も一層力をこめて送った事を昨日のように思い出したのである。その人が今この新聞に戦死として出ている。あの日の、日の丸の波、そして真っ白い楮の丸ヶ、あああの人が戦死したのか、私は戦争と言うものはどこか遠くの方の出来事のように思っていたが、知った人が戦死すると、明日には往かねばならない我が身のことが妙に戦争とか戦死とか身近にひしひしと感じられる。三郎は此の人の写真に見入っていた。「おーい中平早うせんか !」小隊長の声である。私は急いで行李を縛り上げ官舎へと運んだ。そこには隊員の行李が山と積まれていた。中にはペシャンコの行李もある。これは満人とマイマイ(物々交換、私物を持って隊を抜け出し近くの満人に行って菓子等と交換)の選手?だったのであろう、私はこれ等の行李に又帰って来るまで無事にいてくれよ、と念じつつ官舎を出た。
せっぱ詰まったような朝があけた、、、、、、。 今朝は集合ラッパがいやに落ち着いている。牛馬には積める限りの食糧その他を積み、我われも一品でも多くの物をリュックに詰め込んだ。豚も何10頭も居たのだがこれを連れて行くことは至難のわざで、置いて行かねばならない、まことに惜しい事だ。こんな事なら早ょう食わしてくれれば良かったのに。先に中隊では豚殺事件があった。数人の隊員がひそかに豚を殺し、年上の隊員の召集を祝って送別会を行なった。これが幹部に知れて大問題になり、内地の親元まで知らされる事件があった。今はその大事な豚をどうする事も出来ない、すぐに満人に捕っていかれるであろう。やがて牛馬を先頭に私達はぎっしり詰まったリュックを背負い、水筒、防毒面、チェッコ銃。実弾50発、これが重い又防毒面、これがかさばり何とも始末が悪い。チェッコ銃は支那軍の戦利品である。日本の三八銃より良いと言われる。特に機関銃は当時技術の国であったチェッコスロバキヤ産は優秀であった。重い重いとあえぎながら訓練本部へのなだらかな稜線に登り詰める。もう足はがくがくであった。 続く、、、