サブロー日記

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サブロー日記

2006年06月13日 | Weblog
    サブロー日記   銅の道復旧作業 H18.6.11

 この梅雨の中、天は一日の日和を与えてくれた。九時大屋集会所
に、次々と、男性13人、娘さん3人(おいしいおやつを作って現場までもって来てくれる。)の協力を得て、予定の作業、その目的は完全に満たされた。皆さんの、池川の歴史、文化を守る気持ちの現われだと感謝し嬉しく思いました。 
 作業は、予定していた一番の難所、大屋の、六社大元大明神が祭られている氏神さんの真上、ここは安居渓谷一番の景勝地、もみじ谷に突き出ている厳崖の上を越える急勾配の難所である。ここを越えなければ小藪への横道には出れないのである。
 最初に大きな杉の大木が台風で横倒しになっている。これを取り除く作業、これには皆さん一苦労した。山師や、営林署で鍛えたつわもの達の懸命の作業でやっと取り除くことが出来た。二、三人で出来る仕事ではない。まだまだこの坂道で苦労が続く、真縦てに登る坂道、旧道の痕跡さらになし、こつこつと道を造っていたが、先発の部隊が、「石をを落とすけ早よう上がって来い」と言う、もう一寸ここを良くしたいとの想いは残ったが、皆に置いていかれそうになったので後に続く。
 やっと畝(うね)に着いた、ここで一寸と腰を下ろす。


ここ、此の場所を、今を去る約100年昔、明治40年頃ここを通り安居銅山を見学した人の記録があるので紹介してみよう、(故黒茂馬氏、元池川町助役)
 「さて私が十歳のときである、安居銅山へ行くと猿機械(索道)と言う珍しい物や鉱抗、鉱石を精錬する溶鉱炉、天を突く大煙突などの施設が沢山あり、従業員も家族を入れて数百人、その飯場なんかは池川の町より賑やかだという評判で、あの進んだからくりを見ないと時代遅れになるとて、老若を問はず見物に行った。私も何とか一回行ってみたいものと、兄貴分の乙松君と行くことにした。私達は早朝大渡を出発し、峰越えから余能を横切り西谷に下り宮ケ平、大屋を経て、小やぶに登るのだがその坂で休んでいると、下から米一俵がのっしのっしと上がって来る。よく見ると米一俵(約57kg)をカタギに乗せて担いだ大男である。これが当時五人力と言われた大渡出身の酒井信嘉小父さんだったから嬉しかった。信さんと人々から親しまれた人で、池川の方から銅山へ荷方をしていた。「これから俺について来い」と言われ、それからは勇気百倍やがて小藪を通り樫山へ行くと休み場があり、大きな茅葺の宿屋があり、そこで小休し、五丁坂を越えて、通称わる坂を下ると、もう目前一帯の官山は鉱毒にやられて赤禿げだ。そして溶鉱炉から吹き上げる硫黄の臭いが鼻を突き、息きも詰まりそう、銅山の手前にはザコバという鉱業所に背を向けた民有地が有ってここが飯場、急傾斜地を五段に整地し板葺きの長屋が建っている。たまたま現れた私達里の子供が珍しいのか長屋の女将(おかみ)さん達があつまってきた。
鉱業所の前には珍しい針金のつり橋がかかり、それを渡ると左方に溶鉱炉が見え、高い煙突に立つ煙に息詰まる。炉の中は真っ赤な火焔の渦である。そこで精錬された銅の流れが、鋳型の中に流れ込む凄しさは言葉に出来ない。100mほどの頭上を仰ぐと坑口が見える。まるでお伽(おとぎ)の国に来たようだ。」


話は横にそれたが、やっと小藪への横道となった。横道でも数箇所修理しなければならないところが有った。倒木で橋も架かった。
みかえりの滝、千仭橋をはるか下に眺めつつ、楽しい昼食となった。なんと其処には芝神様が祭ってあると言う、見ても何の標(しるべ)も無いが、何事にも造詣の深い、あの伊藤さんのお話し、ある日、兄と妹が山へ行きよって道に芝を敷きよったと、、、、、、それから先は長くなるので伊藤さんに聞いて。
そして、皆さん木の枝を捧げ、これからの道中作業の無事をお願いする。
そのお陰を頂き三時頃、樫山集会所への直線道路となる大カーブの処へ全員無事到着。私は痛い足をがまんしつつ最後にゴール。


文中、五丁坂を越えて、悪坂を下る。とありますが。この五丁坂を越えるところ20mほど道が崩壊してか分からないところがあります、また20mほど倒木がありますが、もうしんどいですよねえ、、