サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

サブロー日記  西  遊   記     4  完

2007年07月03日 | Weblog
サブロー日記           サブロー日記    西  遊  記   4
 国内航空で首都北京へ、北京空港さすがに広い。土地も広いが国土は全部国の物、広げ放題である。日本の成田の比ではない。
 着くと現地ガイド、垢抜けした日本語のうまい美人。年のころなら30くらいか?、その人の案内で専用車に乗り一路万里の長城。八達嶺へ、1時間ほどの道程。初めて見る本物の万里の長城。長城が無くても山又山の厳しい山岳地、その上に築いているのだから完璧。完璧の字源はここから来ているのかも?。 
 さあこの上を何処まで登れるか?問題である。此処にも写真や何もかも手に手に、「千円、千円」の売り子でいっぱい。オリンピックまでにこれを改善してもらいたいと思った。私はマイペースで行くから皆さん先に行って!。と腹を据えた。こちらが女坂。向かいが男坂といい、男坂は見るからにキツイ。ほとんどの人は女坂。足元は石畳である。しんどい、しんどいと休みながら登っていとると。何と先に出た人に追いつく。その一組の人を追い抜いて、目的にしていた最高の城門にやっとたどり着いた。これで満足満足。やったやったと自讃。東西南北を見回し、しっかりと目に、心に焼きつける。時間が迫っているが慎重に降りる。
 中国はトイレ事情が悪いと聞いていたが。ここもつい先日改装されたばかりとの事できれい。その他のところも観光地であったか、そう悪い所は無かった。帰りは「明」の13陵を眺めながらホテルへ、今日も疲れた。
 帰りのバスの中で、ガイドさんが桂林と同じようにしきりに足のツボの指圧を勧める。添乗員もリベートがもらえるのであろう、私は一昨夜のように頼んだ。今日はホテルの部屋に来てくれると言う、値段は桂林と同じ200元。やはり薬草液をビニール袋に入れ、それに足を漬ける。やり方は同じ、吾がふくらはぎが靴下を境に大きく腫れている。今夜の娘は22歳と自分で先に言う。出身はと手振りで問い地図を出すと、大陸のほぼ真ん中、グバイと言うが、地図には出てない、小さな町であろう、丸顔の金太郎のような髪と顔をしていた。出稼ぎに来ているのであろう。元気な気のいい娘さんであった。
 桂林で買った来たお土産用の「桂林三花酒」を、ぐうーと飲んでベットに入った。

今日は6月23日中国最後の日である。朝食はホテルいつものようにバイキング。これが一番。思い思いに珍しい物が食べれる。東京で初めてバイキングを食べた時はちょっと途惑った事が思い出される。連れ合いがいないので朝は一人で外人の中。気楽なもの。
今日の観光コースは天安門。故宮博物館、柴禁城。天壇公園
等である。
 中国と言えば天安門。テレビニュースで御馴染みである。1949年、新中国の成立を毛沢東が宣言したところ。その前の天安門広場。横に大人民大会堂と、中国国家大博物館が相対している。
この奥が故宮。映画ラスト、エンペラーの場である。いろいろ観るところは多いが昨日からの疲れでやっとガイドについて行く。
 そして、い和園。中国の造園美の粋を集めたこの庭園は西太后の夏の離宮。西太后はこの自らの隠居所を造るのに海軍の費用をこれに充て、清国の滅亡の一因となったと言われる。
 中国最後の夕食は、老舗飯店で名物の北京ダック。サブローは食した事が無いので期待が大きい。食卓は最後の晩餐とてビール、紹興酒で賑わった。やがてコックさんがテーブルの近くにダックを持ってきて料理を始めた。それをチャイナ服のク―ニャンが手際良く餃子の皮の様な物にくるんで配ってくれる。口に入れる?!これが有名な北京ダックか?、、、、早く帰ってカツオを食いたい。
 今日も歩き回った。元気に帰るため、今夜も指圧を頼む。昨夜の娘が来てくれた。
 
6月24日また大連経由で無事帰国。日本に帰りサービスエリアで食べたラーメンが一番うまかった。     完   サブロー





サブロー日記  西   遊   記   3

2007年07月02日 | Weblog
     西  遊  記
                  サブロー日記  西  遊  記    3
 足の指圧が良かったか良く眠れた。明け方の窓を開けると直ぐ其処に璃江の支流が流れていている。ここも両岸には日本の竹とちょっと違うが、ハチクの様な竹が植わっている。その岸辺までこのホテルの庭園だ。その川につけ釣りを揚げに一艘の川舟がやってきた。ここにも池川の氏次さんの様な漁師が居るよ”と思って見ていると
漬けていた、網で作った籠を引き揚げた。捕れている。捕れている。小魚であるが遠目にもなかなかのもの、それをザルにうつして、又その場に漬けていた。川の好きなサブローもやってみたいよ! と思った。
 桂林の空港はなかなか市内から時間がかかる。空港毎にパスポートを見せねばならない。大きな旅行カバンが重たい。同行の中、私が一番の年寄りなので皆さん親切にカバンの世話をしてくれる。荷物検査で、手荷物の中の水の入ったボトルが大きかったので取り上げられ、カミソリも取られそうになったが、係りの者が上司と相談の上やっと許された。
 やがて搭乗、同行の皆さん皆夫婦連れ、サブローは一人なので同席はいつも外国人、今日は中国の中年の女性。折角の海外旅行、此処が面白いところ。機内食の時はいやでも手振りで会話することになる。私は旧満州時代の満語の覚えくさしを単発するが通じない。
 昨夜の指圧の娘にも通じなかった。やはり漢族と、満州族とは言葉が違うのだ。それで清の皇帝はこの広い漢民族の国を治めるに苦労したのだな、と思った。やがて中国最大の都会上海へ無事着陸。
 ここは日本の大阪の様なところ。商工業の地で、そう観光するところも無い。ただただ高層住宅の群生?には驚かされる。また世界一の高層になると言う日本の森ビル、もう直ぐ完成であると言う。その直ぐ横にテレビに再々でて来る上海のトレードマーク。カンザシのようなテレビ塔。オリンピックが終わると、ここ上海の万国博覧会、いまがあらゆる領域で建設の真最中。日本の景気も万博が済むまでは多少恩恵にあずかるであろう。特に鉄鋼景気は増すであろうとおもわれる。
 市内の豫園(よえん)と言う名園を観光し混雑の商店街を散策する。
 夕食はさすが食の国。大きなレストランがどこまでも建ち並ぶ中で上海料理、でも何のことは無かった?。横浜の中華街の方がもっと良いように思った。
 食後は有名な上海雑技団を観に行ったがサブローは疲れていたのか半分程は眠っていた。たいしたことは無かった?。
今夜のホテルは、虹口世紀大酒店。ホテルの名前には殆んど何々酒店とある。どうしてか聞くことを忘れた。明日は北京か、、。


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サブロー日記  西 遊 記   2

2007年07月01日 | Weblog
    西 遊 記  2
 桂林には夕闇8時に着く。ネオンが川面に映り夜の街は賑わっていた。ここは中国屈指の景勝地、秦代より東南アジアへの要衝であり、緯度は台湾の台北あたり、気候は温暖。レストランで夕食してホテルへ。
 どうも中国のビールはおいしくない。飲みそめてないからでもあろうが物足らん。ホテルの冷蔵庫で独りで呑み直し、ちょつとキツイ酒を。よく眠れて20日は待望の璃江下り。
 ホテルよりバスに乗り1時間。車窓には早くも奇岩の山々が無数に見える。現地の添乗員、羅さんが、この山々幾つあると思いますか?の質問に、私達思い思いに答えたが、添乗員の答えは、数えても数え切れず、山ばあ有る。との答えであった。この道筋には、池川の昔のままの田植え風景が見られ懐かしく思った。ただ牛でなく、水牛を使っていた。
 やがて船着場、竹江に到着、なんと驚き。日本の長良川の鵜飼舟を想像していたのだが、何と100人、200人も乗れる大きな船が処ろ狭しとひしめき合っていた。乗船客も呉越どころか万国の人の集まり。私達の予約船はやや小さい70人ほどの船だった。日本人が半分くらい、後は西洋の人らしい。やがて出港、上の甲板に出てみる。両岸には竹林が連なり、その隙間から山村の農家の家並が見え隠れする。岸に出て漁をする人、洗濯する人。泳いでいる人、水は50センチくらいの透明度であった。4時間余りの川下りであったが、途中昼食が出た。サブローはビールでは物足りないので桂林名酒、「桂林三花酒」の焼酎を注文、皆さんにも勧める。料理も多く今までの食事の中一番おいしかった。で全く退屈せず。奇岩奇峰を眺めつつ川の流れに乗った。サブローは同行の日本語を習っていると言う学生のアルバイトに写真を写すよう頼んでいたので、再々甲板に引張られ写真を写された。中でも外人と意気投合して一緒に写真におさまったことは、吾も世界の中の一人だなと、自負心を感じた。
 4時間の川下りも退屈せず、やがて終点、陽朔(ようさく)と言う街に着き、今度は、これまた素晴らしい鍾乳洞。「蘆笛岩」(ろてきがん)に、此処にはお土産店が小さな街をなしていたが、それよりもアブの群れ?のように手に手に写真を持って「千円、千円」を連発しながら、襲って?来る売り子には閉口した。洞窟は龍河洞よりも、秋吉洞よりも勝るとも劣らないものであった。桂林はこれで鬼に金棒。天然の観光地を持ち益々発展するであろうと想った。市内に帰り゜「像鼻山」を観る。桂林は市中を守るように奇岩が囲み、洞窟がある。不幸な日中戦争で日本軍はこの街を攻めた。池川の余能の、今は亡き梅原忠保さんの体験記には、
「桂林、桂林へと進む。桂林を流れる川のむこうは蒋介石が千年の要塞と言っている様に石灰岩の洞窟に銃眼を作り下を見てバリバリ弾を撃ってが来る。、、、、川に架かる大きな橋を渡ってⅠ大隊が市内に突入すると言うものであった。、、、、、重機を持って側溝にうずくまった。指示が有れば向こうまで走るというものだった。吾が命もこれまでと思った。、、、、、、、ピ、ピ、ピ、よし行くぞ! と其の時真っ赤な火が横に走った。大音響と共にあの大きな橋が爆薬で火を噴いて舞い上がった。ぞっとした。やれやれ命拾いした。やがて桂林は200門の大隊砲により総攻撃され陥落した。」  
 サブローはこの戦跡も観たかったのだが、今は日中友好の時代、添乗員の羅さんには戦争のことは質問すら出来なかった。周囲は、あの戦争を知らない人ばかりである。
 かえりのバスに乗る。添乗員は今夜の夜の観光を案内し、勧めるのだが皆さん疲れて誰も参加の希望者は無かった。そしてホテルで、 中国流の足のツボのマッサージをしきって勧める。サブローは洞窟の見学で脚が痛い、川で鍛え、安居渓谷の滝で鍛えていたのだが年には勝てん。マッサージを頼むこととした。夕食後風呂に入り、予約の時間にフロントに行くと羅さんが待っていた。ロビーの奥まったところに、数部屋に別れその一室に入れられる。値段は200元、日本円で3.400円程だ。支払いが済むと、羅さんが出際に「ゆっくり楽しんでくださいよ! ?」サブローは一瞬ドキッとした。ひょっとと思った。もしかとも思った。やがて若い女の娘が桶を抱えて入って来た。桶の中には薬草を煎じた液が入っていた。これに足を10分ほど浸し、それから足の裏のツボを一つ一つ指圧しもんでゆく、気持ちのいいものであった。心配? した事も無く足も軽くなりわが独房にかえる。
 明日は上海だ。