伯母が後妻なので血の繋がらないいとこになります。
地方都市の夢みがちな両親と私だけの暮らしから、突如若い工員ばかりの他人ばかりの都会の町工場で生活する事になったので、小学2年の私にはビックリ仰天の連続でありました。
頼りの祖母は子育て経験0(女中さん任せだったので)、ひどく頼りない私の気持ちを慰めてくれたのが、伯父の蔵書の童話集(ペルシャ童話とかあった)でした。
それともう一つ、従兄弟の中で紅一点の末娘が購読する『ジュニアそれいゆ』でありました。
この女の子、たって私より7歳上、はやっと年下が来たとばかりに、威張ってばかりいた。
それでも、たいそう気は良くて自分の手持ちの本は気前良く貸してくれました♪
昭和29年、雑誌『ジュニアそれいゆ』が創刊された時代は、未だ本は貴重な娯楽だった時代です。
この『ジュニアそれいゆ』の創刊者が中原淳一なのです。

中原淳一は戦後間も無い焼野原の都会に夢と希望を与えるべく、私費を投げ打ってお得意の絵を散りばめたたいそう綺麗な雑誌を創刊したのです。昭和21年の事です。
表紙絵でお分かりのように彼の描く少女画は独特の魅力を持ってました。
つぶらな瞳と長いまつ毛、カワユイ唇、あくまでも上品な可愛らしさ、女の子にはたまらない魅力でありました。
彼はこの絵の才能によって、若い頃身を立て、ファンから絶賛されたのです。

元々画家志望でしたが、フランス人形作りに才能があってデパートに展示したところから、有名になったのです。

元々画家志望でしたが、フランス人形作りに才能があってデパートに展示したところから、有名になったのです。
内気らしい青年が世に出て成功して、宝塚スター葦原邦子と結婚、幸せな家庭を築いてます(家族写真は昭和23年のもので、終戦後と思えぬ豊かな雰囲気ですね)。
ただし、この『ジュニアそれいゆ』を発刊した頃が彼の絶頂期で、昭和34年、46歳の時突如脳溢血で倒れてしまいます。その後は雑誌社は潰れ、家族は離散、彼は友人の庇護の下ひっそりと70歳の生涯を閉じたのです。
この『幸せな食卓』は、後年彼の次男が監修したものです。中原淳一が女性の豊かな暮らしに寄せる熱い想いが伝わる本であります。
とっても、懐かしく手にとりました。

昭和20、30年代はモノの無い時代であります。

昭和20、30年代はモノの無い時代であります。
それで残り布を工夫して、編んでバスマットを作ったり、エプロンにアップリケしたり、家庭を楽しく美しくする事を提唱したのです。

又、衣類の乏しい時代ですが、残り布で手作りの可愛いエプロンを1週間分作って毎日の気分をリフレッシュしようと言ってます。

昭和23年のおやつのレシピ、たってお馴染みのホットケーキ。お手間入りで細やかな、まさに昔のおやつです。

これは今でも参考になる夏のおやつ、夏蜜柑のゼリーです。中身をくり抜いた夏蜜柑の器にゼリーの果汁を入れ生クリームで飾ります。

彼の提唱したプレゼントのラッピング。

又、衣類の乏しい時代ですが、残り布で手作りの可愛いエプロンを1週間分作って毎日の気分をリフレッシュしようと言ってます。

昭和23年のおやつのレシピ、たってお馴染みのホットケーキ。お手間入りで細やかな、まさに昔のおやつです。

これは今でも参考になる夏のおやつ、夏蜜柑のゼリーです。中身をくり抜いた夏蜜柑の器にゼリーの果汁を入れ生クリームで飾ります。

彼の提唱したプレゼントのラッピング。
心のこもった贈り物を一工夫して大好きな友達に贈りましょう、という事です。
正直言って、中原淳一さんの生きた時代の現実とそぐわない気は多々あります。
まあ上流階級のお嬢様向き、と言った感じです。
しかし、真心で荒廃した日本を美しい夢のあるものに変えたい、という彼の思いは伝わってきます。
従姉妹は大いに感化されて、残り布を綺麗に正方形に切って、繋ぎ合わせて縫い、あっという間にフレヤースカートを作りました。かなり器用でアイデアマンでした。
「お前のは器用と違う、アイデアだけだ」とか兄に貶されてましたが、兄弟中で一番モノづくりの才能があったと思います。
多分1から町工場を設立した父親に一番似ていたのでしょう。
夢いっぱいの中原淳一の少女画と共に、凡そ不似合いな町工場の機械の匂いを懐かしく思い出すのです。