私のモータースポーツライター時代の話、2回目です。
それほど長くはない期間でしたが、充実した楽しい数年間を過ごしたあのころ。
でもやっぱり、2度に渡って行ったスクーデリア・フェラーリのイタリア現地取材が、そのハイライトでした。
たとえば、戦前のスクーデリア・フェラーリのドライバーで…
オールド・ファンの間で「史上最強」と言われたタツィオ・ヌヴォラーリについての調査取材もしました。
そこで、他の海外のジャーナリストや研究者が知らなかった、新たな事実も発掘できました。
「史上最強」の問いは、いろいろなスポーツの世界で取りざたされることです。
タツィオ・ヌヴォラーリは、活躍した時代から時が経ち過ぎて、今ではほとんど忘れられた存在ですが…
21世紀初頭には、彼の活躍を生で見て覚えている人たちが、まだぎりぎり存命だったため…
「ヌヴォラーリ史上最強説」を唱えるオールド・ファンがいたのです。
「天翔けるマントヴァ人」と呼ばれたヌヴォラーリ。
私も凝り性なので、その走りだけでなく、知られざる彼の実生活までのめり込んで取材し、資料や写真を集めました。
田舎のイタリア人の、底抜けの親切さと優しさに助けられて、思わぬ新発見もしました。
既に係累が絶え果てて、生きている親戚は、認知症を患った従妹だけだと物の本にも書いてあったのですが…
タツィオの従弟が存命であることが判明して、思わぬ偶然から会うことが出来たり。
彼は、世捨て人そのものの人物で…
「そっとしておいてくれ。タツィオ・ヌヴォラーリの親戚であるというのは、私には重荷過ぎるんだ」
と言っていました。
ただ……最強、と言ってもね。
スポーツは何でもそうですが、同じ競技でも時代によって道具が変わるし、トレーニング方法が変わるし、環境も変わるし…
「今」と「昔」を比べても意味がないんですけれど、つい、それを考えたがるんですよね、人間って。
「史上最強は誰か」と。
本当のことを言ってしまうと、スポーツの世界で「最高記録」というのだって、そんな大した意味はないんですよ。
遠い昔の選手と今の選手と、条件が違い過ぎる者同士の記録を比較するなんて。
陸上競技ひとつ取ったって、シューズがどうのこうの以前に、トラックの材質からして違う。何十年も前の記録とは比べようがない。
まして自動車なんていう高度な機械を使う、しかもレギュレーションがころころ変わるモータースポーツの世界で…
年次が変わった状態で、名ドライバーと言われた者同士を比較するのは、明らかに意味がないんです。
まあ、人の心の中に住んでいる「子ども」がさせる問いなんでしょうね。
ウルトラマンとセブンとがもし戦ったら、どっちが強い?みたいな、無邪気な問い。
大谷翔平はベーブ・ルースを越えたか?というのも、典型的な「意味のない問い」です。
それはともかく……
F1の「皇帝」と言われたドライバー、ミハエル・シューマッハ…
「あなたはなぜそんなに強いんですか」?という問いに対する次の答えは、真実だと言えるでしょう。
「その人間にとってベストな時期に、ベストなマシンに乗る幸運に恵まれれば、誰だって勝てるんだよ」
振り返れば、ルイス・ハミルトンとメルセデスAMG、シューマッハとフェラーリ、セナとマクラーレン・ホンダ…
みんな、そうした好条件が揃ったからこその、強さであったのだと思います。
天才が、フィジカルとメンタルが最高潮の時期に、その時代で最高のマシンに乗れたからこその、パフォーマンスと記録。
実はレジェンド級の才能を持ちながら、マシンに恵まれなかった、あるいは恵まれたときには既に盛りを過ぎていた…
そうした理由で日の目を見なかったドライバーが、おそらくたくさんいたことでしょう。
そんな中で、オールド・ファンの記憶の中に残っていたタツィオ・ヌヴォラーリは…
50代に至っても、新進気鋭のドライバーたちを寄せ付けないほど速かった。
モーターサイクルに乗せても、スポーツカーのロードレースでも、シングルシーターのGPレースでも、あらゆる場面で強かった。
そして何より、ライバルと比べて、明らかに時代遅れで戦闘力のないマシンに乗ったときでさえ…
圧倒的なドライビングをして、偶然ではなくそれが当たり前のように、鮮やかな勝利を見せてくれた。
大怪我をしていても、大病を患って、コックピットで吐血するような状態になってさえも速かった。
といったエピソードが、彼の「最強伝説」を作ったのだと思います。
いつだって、人は自分の目で直接目撃したものに感動します。
記録ではなく記憶に残る名選手、というのがいるのは、そういうことです。
「史上最強」というのはきっと、それぞれの人の心の中にだけ、存在するものなのでしょう。
フェラーリを巡っては、もうひとりの「最強伝説」を持つ人物…
そして、彼のキャリア最高潮のときのマシンの取材をする幸運にも恵まれました。
ミハエル・シューマッハと、フェラーリF2004です。
たまたま一年間、フェラーリの歴史を追いかけようとした時が…
シューマッハと、F2004が活躍した年に当たったのは、私の幸運以外の何物でもありませんでした。
私は、F2004のプレス向けプレミア発表会が行われる、1週間ほど前にモデナに入りました。
幸いなことに、スクーデリア・フェラーリの、当時の広報担当責任者と意気投合して、友達のような関係を作ることができました。
遠い東洋から取材に来たジャーナリストなのに、イタリア語を自由にしゃべっていたのが、気に入られたんだと思います。
モータースポーツの世界では英語が共通言語で…
フェラーリを取材する場合も、すべてのジャーナリストは英語でしか話しません。
(スポーツではなく、市販車を扱うモータージャーナリストにはイタリア語を流ちょうに操る人もいますが)
昔、フジテレビの地上波でF1を全戦中継していた時代、ピットレポーターなどをしていた川井一仁氏が…
ミハエル・シューマッハのことを「マイケル・シューメーカー」と英語呼びしていたことでもわかるでしょう。
そんな中で、イタリア語をしゃべる私が、とても珍しい存在だったのは間違いありません。
それで特別な「贔屓」をしてもらえたのでしょう。
ドライバーたちが、マシン開発のためのテストやシェイクダウンをする、フィオラーノのテストコース。
そこには、ドライバーたちが寝泊まりするための建物もあるのですが…
私は、トレーニングルームやダイニングルームといった場所を見学させてもらったばかりでなく…
F1界の「皇帝」と呼ばれた、ミハエル・シューマッハの、なんとプライベートルームまで見せてもらいました。
もちろん「写真撮影はNG。それだけでなく見たこと自体、絶対に口外しないでくれよな!」と釘を刺されましたが…
でも、もうあれから18年の時が経過したし、シューマッハも自宅で寝たきりの人になってしまったので…
ほんのちょっとだけ、様子を明かしてもいいでしょう。
彼の居室は、赤と黒のツートーンカラーを基調としたインテリアでまとめられていて…
部屋の中に、ミハエル自身の、ブロンズ製の胸像が飾ってありました。
それをどう受け取るかは、みなさんにお任せします。
「カントリーハウス」と呼ばれていたその建物は、もともとはエンツォ・フェラーリのための滞在施設で…
かつてのエンツォの執務室や、その裏にある「隠し部屋」も見せてもらえました。
腹心の部下だけが入れる、密談のための場所。
なんだかマフィアのアジトに入ったみたいで、ドキドキしたのを憶えています。
ピスタ・ディ・フィオラーノの、テレメトリーシステムなどが入っているコントロールルームも、特別に見せてもらいました。
もちろん撮影はNG。
ただ、そうした特別扱いは、スクーデリアの主要人物だった…
ジャン・トッド監督、チーフエンジニアのロス・ブラウン、デザイナーのローリー・バーンと…
そして「皇帝」シューマッハ自身への「単独インタビュー」を打診していたのに…
その時間を取ってもらえなかったことへの、一種の「お詫び代わり」だったのだと思います。
かろうじてシューマッハにだけは、よく日本の政治家が「ぶら下がり取材」を受けるみたいに…
歩いての移動の途中に、二言、三言の質問をして、答えを得ることが出来ましたが。
それだけで「俺はシューマッハにインタビューした」と言っている私は、いささかほら吹きです。笑
まあ、嘘ではないですけどね。
その後の、プレミア発表会に付随したブリーフィング=共同記者会見では、広報の「彼」が私を指名してくれて…
代表として、質問のひとつをすることが出来ましたけれど。
正直言って当時のスクーデリア・フェラーリには、トッド監督やロス・ブラウンら、外国人の幹部と…
現場で働くイタリア人スタッフの間に、見えない壁のようなものが存在している感じで…
広報担当の彼がいくら頑張っても、そうした「外国人幹部」への取材を通すことは、難しかったのだと思います。
その代わり、シューマッハが乗る「カーナンバー1」のマシンのチーフ・メカニックを務めていた…
イタリア人のフランチェスコ・バルレッタ氏には、長時間じっくりと話を聞くことが出来ました。
また、フィオラーノに来ていたテストドライバーの、ルカ・バドエルとは、まるで友達みたいに…
雑談を交わしながら、マシンの情報を得ることが出来ました。
そのときバドエルは「今年はうちにとって過去にない偉大なシーズンになるよ、絶対!」と予言していました。
その予言は的中して、F2004は全18戦中15勝をあげ、全てのレースで表彰台を獲得し…
「最強のF1マシン」のひとつに数えられるくらいのシーズンになったわけです。
それから、これも「罪滅ぼし」のつもりだったのか…
広報責任者の彼から、フェラーリに乗って年間チャンピオンになった唯一のイタリア人ドライバー…
アルベルト・アスカーリの息子さんを紹介してもらって、インタビューが出来ました。
また日本でいえばNHKに当たる、公営放送局「RAI」の、モータースポーツ部門の責任者を紹介してもらい…
その人を通じて、フェラーリでチャンピオン目前まで行ったものの、自分の意見が通してもらえなかったせいで逃した…
ミケーレ・アルボレートの、未亡人へのインタビューも実現しました。
ニキ・ラウダと、ステファン・ヨハンソンへのインタビューは、私が直接申し込んで実現したものですが。
蛇足ですが……
マシンの「音」という事でいえば、F2004と、ティーポ053 自然吸気V10エンジンの組み合わせは…
私がかつて聞いたあらゆるレーシングマシンの中で、No.1のエキサイティングな音を出していました。
これが、私の「モータースポーツジャーナリスト」時代のお話の、ハイライトです。
もう、あんな仕事はできないでしょうね。
たらればの話をしても仕方ないですが…
月刊誌『バーサス』がもし成功して、あのまま続いていたなら…
その後しばらくは、まだあの仕事を続けていられたのでしょう。
ただ、今現在は、モータースポーツ自体が世界的に下火になってしまったので、それを扱うジャーナリズムも一緒に衰退してしまいました。
電気自動車のフォーミュラ・レースもありますけど、あんな「ミャーミャー」猫の鳴き声みたいな音をたてて走るマシンのレースに…
人間の魂を揺さぶるような魅力はないと思っています。
自動車レースが輝いた日々は、もう二度と戻っては来ないのかと思うと、何とも寂しいです。
最後に、プレス発表会から数日後にフィオラーノで行われた、F2004のシェイクダウンの動画を貼っておきます。
もうおそらく見ることが出来ない、シューマッハの雄姿をご覧ください。