山内一豊と千代の像
静岡県掛川市中町
東海道 三大難所 小夜の中山
駿河 金谷宿と遠江 日坂宿の間の峠で、急峻な台地は勾配もきつい箱根、鈴鹿峠と並ぶ東海道の難所
会津 上杉討伐〜関ヶ原の戦い
豊臣秀吉の政権終盤に越後から会津へと転封となっていた上杉家は新領地への経営に取り掛かります。
北に秀次事件に連座し、側室に差し出した愛娘を秀吉の命令で殺された最上義光、最初の上洛当初から因縁があった伊達政宗と秀吉が危険視した諸大名の監視を伴うもので、さらに江戸の徳川家康への圧力を兼ねての転封でした。
慶長4年3月
慶長4年3月
大老 前田利家の病没後、朝鮮出兵以来、関係か険悪化していた加藤清正、福島正則、黒田長政らが五奉行の石田三成の襲撃を企てるも、三成は徳川家康の屋敷に逃げ込むことで救われます。
家康は両者の間を取り持ち、三成は五奉行の職を辞し、領地の佐和山に蟄居することで身の安全を保証して送り届けます。
反家康の急先鋒だった石田三成の失脚により、豊臣政権は唯一の大老、徳川家康の力がさらに増します。
秀吉の命で上杉の旧領 越後に入っていた堀秀治は、転封前に年貢を持ち出していた上杉家に返還を求めていたものの上杉景勝の腹心 直江兼続は拒否、堀秀治は噂のあった上杉家の新城築城(神指城)と大量の浪人召し抱えを家康に報告します。
秀吉の命で上杉の旧領 越後に入っていた堀秀治は、転封前に年貢を持ち出していた上杉家に返還を求めていたものの上杉景勝の腹心 直江兼続は拒否、堀秀治は噂のあった上杉家の新城築城(神指城)と大量の浪人召し抱えを家康に報告します。
慶長5年正月
上杉景勝の名代して上洛してきた重臣の藤田信吉は豊臣秀頼と徳川家康に年賀の挨拶に参上します。
家康は信吉に銀子等を与えて労う一方で、堀秀治からの訴えと神指城築城の意図を詰問し、景勝に弁明するように促しました。
帰国した藤田信吉は上杉景勝に報告するも、秀吉存命中から石田三成と懇意だった景勝腹心の直江兼続は耳を貸さず、上方と上杉の間で緊張状態を生むことになります。
藤田信吉は他の上方との融和派と共に家中で孤立し、出奔を余儀なくされ、江戸城の家康三男の徳川秀忠の元に逃れます。
徳川秀忠は急使と共に藤田信吉を家康に派遣したことで、上杉の叛意の噂が上方に伝わることになります。
家康は上杉に上洛して弁明する様、使者を送りますが、腹心 直江兼続より、上方の武士は人たらしのための茶道具を集めるだろうが、田舎武士である当家は武具を集めるは必定とも返答し、家康に挑発とも受け取れる書状を家康に差し出します。
世に伝わる直江状です。
この書状の効果は絶大で、家康が上杉討伐を宣言する大義を得るに充分でした。
かくして家康は上杉討伐のために江戸へ下向することにして、豊臣秀頼に拝謁、秀頼は家康に軍資金と兵糧を託しします。
これにより豊臣家の大老として上杉討伐を指揮する名目がなります。
慶長5年6月16日
大坂を発った家康は同日、伏見城に入り、
駿府での人質時代より竹馬の友同然だった鳥居元忠を留守居に命じ、今生の別れとなる盃を交わして石田三成が挙兵すると読んで発ちます。
家康の読み通り、石田三成は後に挙兵します。
関東へ下向する家康は敵視していると見た五奉行の長束正家の近江 水口を夜陰に素通りする等、大軍ながら慎重に東海道を下向し、かつて秀吉が自らの押さえのために配置した福島正則、田中吉政、池田輝政、堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏といった恩顧の大名らの領地を進みます。
ただ、これを見越していただろう家康は、福島正則に養女を正則の側室に宛て、池田輝政は女壻、堀尾吉晴にはい加増と、様々な処置を済ませてありました。
6月24日、遠州 掛川城下を通る家康、城主の山内一豊は豊臣恩顧の大名では最古参の直臣でありました。
堀尾吉晴ら、織田信長以来の同期が軒並み10万石以上に出世している中、実直な山内一豊は掛川の約5万石に留まっていました。
東海道三大難所である小夜の中山を通る家康一行に山内一豊は峠の古刹、久遠寺の境内に茶亭を建立して饗応しました。
久遠寺
山内一豊が徳川家康を饗応した久遠寺
山内一豊は家康とは30年の関わりがありました。
1570年、元亀元年の越前 朝倉攻めの際、浅井長政の裏切りにより退路を断たれる寸前にあった織田信長を逃がすため、秀吉が殿(しんがり)を買って出たことにより、絶望的な金ヶ崎の退き口の退却戦を繰り広げた山内一豊は、同じく信長に置いてきぼりを喰らった徳川家康の軍勢と協力し合い、脱出に成功しました。
家康と秀吉が生涯唯一戦った小牧・長久手の戦いでは、三河中入りを狙ったものの、長久手の戦いで家康の強さ、恐ろしさを体感しました。
両者、既に老境の侍として募る話も茶亭でなされたことでしょう。
一豊の饗応を受けた家康は東海道を下り、7月1日に江戸に入り、下野国、小山で評定を行い、石田三成の挙兵を受け、取って返し、美濃の盆地、関ヶ原で激突します。
慶長5年9月15日、辰の刻(午前8時頃)、
濃霧の晴れ間に東軍の井伊直政、松平忠吉が西軍に鉄砲を撃ちかけて始まった総勢10万を超える関ヶ原の戦いは、西軍が押し気味に進めるも、大軍勢を率いて松尾山に布陣した小早川秀秋の裏切り、形勢が一気に東軍優勢となり、申の刻(午後2時頃)には、西軍の主だった諸将が逃亡を計り決しました。
掛川城
東軍、徳川家康に味方した掛川城主、山内一豊は約二千の軍勢で徳川家康の本陣後方、南宮山の毛利勢に備えましたが、主だった戦功も無く戦いを終えました。
戦後の論功行賞で徳川家康は、小山評定で集まった豊臣恩顧の諸将らを前に、掛川城を明け渡す発言で口火を切り、東海道に領地を持つ豊臣恩顧の諸大名らが続々と味方となる流れを果たした山内一豊を高く評価し、土佐一国を与えました。
豊臣古参の直臣ながら 小大名に甘んじ、秀吉の晩年には、甥の秀次の家老職を務めて苦労した一豊。
秀次一族が皆殺しに遇う秀次事件を乗り切ると一豊は秀吉後の去就を徳川家康と定めました。
掛川約5万石の領主から土佐一国20万石の太守と、大出世を遂げました。