北海道地名由来史リバイバル6 平取町
平取町 【びらとり町】
平取町は、アイヌ語源で地名の由来はアイヌ語のピラウトゥルで【 崖の間 】を意味し、ピラウトゥルを漢字にあてて平取町と名付けられました。
日高の北の山間部の平取町は和人が入植する前からアイヌ人が住んでいました。
江戸時代後期の1798年 寛政10年、蝦夷地探索を命じられた幕臣 近藤重蔵がこの地を訪れた際、土地のアイヌ達がハンガンカムイと称する神を崇めていることを知ります。
ハンガンカムイとは、平安時代末の源平争乱期に平家を滅ぼした源 義経のことで、功績を得ながらも後に兄の源 頼朝と袂を分かち、青年時代を暮らした奥州平泉の藤原秀衡の元に身を寄せながらも秀衡の寿命はわずか、秀衡は、やがて頼朝が奥州に軍勢を差し向けると予見し、自分の死後、義経を大将に軍勢を率いて泰衡と国衡は協力して事にあたる様にと遺言を遺してこの世をさります。
秀衡の予見は当たり、やがて頼朝の圧力に屈した次代の藤原泰衡の襲撃を受け、義経は自害、武蔵坊弁慶らと共に主従もろとも命を落としました。
と伝わるのが通説ですが…
ところが、北海道に伝わる義経主従は…
1189年 文治5年 閏4月30日、徐々に泰衡とその周辺の不穏な空気を感じ取っていた義経は、密かに平泉を脱出し、さらに北の陸奥の北津軽(現在の青森県)を経て津軽海峡を渡って蝦夷島(現在の北海道)の福島(道南、福島町)に逃れ、さらに主従たちは蝦夷島各地を西海岸線に歩き、やがて蝦夷富士と言われる羊蹄山を右手に見て内陸部に入り、さらに再起をはかる旅を続けました。
近藤が蝦夷地を探索する各地では、この様なアイヌに崇められる義経の伝説が伝わっており、平取に伝わる伝説では、義経主従はアイヌの集落だった平取の二風谷(にぶたに)にたどり着くとアイヌ達を慈しみ、外敵からも守ってくれる傍らでアワやヒエなどの耕作の仕方や栗を食することも教えてくれ、アイヌ達は神話の神オキクルミの再来と考える様になり、義経が判官と呼ばれていたことからハンガンカムイとして崇めました。
近藤は、義経主従の伝説を詳細に語るアイヌ達の証言に心動かされ、江戸に戻ると仏工 法橋善啓に依頼して義経像を造り、翌年 再度 平取に戻ると集落近くの沙流川の崖に小さな祠を建立し、持参した義経像を納めました。
崖の祠の義経像は風雨に晒され何度も沙流川に流される災難に遇いながらも奇跡的に発見され、その都度 祠に戻されました。
祠はやがて義経神社として創建されます。
義経像最大の危機は、江戸幕府が倒れた後に新政権となる明治政府によって起こります。
幕府が倒れると沙流場所か廃止され、義経像は稲荷社に移されますが、1871年 明治4年にな
ると明治新政府により廃仏毀釈が宣言され、全国の廃仏の嵐は北海道にも上陸し、義経像も焼却される運命にありましたが、アイヌの長老ペンリウクはホウガンカムイは我々の神として義経像を引き戻してもとの沙流川の崖に祀ります。
ペンリウクは義経像を御神体に宮守りとなり、これが義経神社の創建と繋がります。
義経神社の境内には義経が植えたと伝わる栗の木が育ち、祭日は8月15日で、これは京の鞍馬寺の義経忌と同じそうです。