旭川市カントリーサイン
旭川市
旭川市は道都 札幌市から北へ約130キロあまり。
人口約33万の北海道第2の都市です。
市内を流れる石狩川の河川敷沿いにアイヌの聖地~神居古潭(かむいこたん)~があり、アイヌはこの地をかむい、こたん(神の居るところ)として崇めながら暮らしていました。
北海道の開拓は、海岸の地域から始まったこともあり、内陸部の旭川には、明治時代も西南戦争の終結する明治10年まで和人が定住することもなく、未開の地同然でした。
旭川にようやく開拓の鍬が入れられるのは、1888年 明治18年、司法大輔の岩村通俊が訪れてからでした。
市内の近文山 に登り、上川盆地を見下ろした岩村は、かつて幕臣の近藤重蔵が11代将軍 徳川家斉に宛てた建白書の上川離宮予定の故事をならい、西京に類ずるや、大雪山を比叡山に見立て、石狩川を鴨川に重ね、我が国の北都なり と記しました。
帰路、岩村は北京を上川に置くとの報告書を認め、黒田内閣 に提出しました。
総理大臣の黒田清隆は、かつて自分が北海道開拓長官も務めた役職もあり、北海道開拓には思い入れが強く、翌年の岩村の初代 北海道庁長官の就任も旭川への離宮実現を後押しする格好となりました。
ただし、北海道庁札幌本府を設置した札幌を中心に官民一斉に反発が起こり、実現せずに終わります。
ただ、肥沃な盆地の旭川が発展する動きが起きます。
かつて岩村と共に、離宮実現を目指した永山武四郎が2代北海道庁長官となり、開拓の先兵となる屯田兵を3大隊も入植させ、開拓の鍬を旭川に入れました。
明治31年になると、国鉄が小樽ー札幌から旭川まで路線が延長されて開発も急速に進み、さらに札幌に置かれていた大日本帝国陸軍第7師団が移転すると、軍都 旭川として発展を遂げ、終戦後は陸上自衛隊の北部方面隊の第2師団として軍都の面影を残します。
旭川市の地名由来ですが、地名学者の永田方正により、アイヌ語のチュプ、ペッ【日の~川】から充てられました。
この言葉の川は、旭川市内を流れ、大河 石狩川に合流する忠別川のことをさしています。
【 此の川、水源は東にありて、日月の出る処に故名く 】と、書いたことによります。
川から名前がついた旭川市ですが、カントリーサインに画かれる様に、市内には大小160もの川が流れ、架かる橋は760にもなり、これは808の橋があることから、八百八橋とも呼ばれる大阪にも匹敵する数です。