松前城
北海道地名由来史リバイバル 9 松前町
北海道 渡島(おしま)支庁の松前町は、道南最南西部に位置する唯一の城下町です。
地名の松前町については、豊臣政権後期、初代 松前藩主の松前慶広が、従来名乗っていた蠣崎氏から改姓する際、大老の徳川家康と前田利家に忖度する格好で、徳川家康の旧姓の松平の松の字と、前田利家の前の字をとって松前とし、以来、松前の氏名を名乗ったとされていますが、地名由来は、他の地域と同じ様にアイヌ語から来ています。
語源は~マツオマナイ~この言葉は半島を意味しています。
松前町には、源 義経と主従の伝説が伝わります。
源 義経は、平家を滅ぼして、源 頼朝の鎌倉幕府創設に貢献したにも関わらず、やがて頼朝と不和になり、遂には頼朝に追討される身となり、少年時代を過ごした奥州 平泉の藤原 秀衡を頼ることになり、やがて秀衡の死後、後を継いだ藤原 泰衡が頼朝の圧迫に耐えかねた末に、平泉 衣川の義経と主従を襲撃し、義経と主従は自刃したと伝わります。
北海道各地に伝わる義経伝説~松前~
義経最大の庇護者、藤原 秀衡の死後、不穏な空気を察知していた義経は、主従と衣川を脱出して北を目指し、荒波の津軽海峡を越えます。
義経と主従を乗せた舟が大波に呑まれようとした時、義経は八幡大菩薩!と声を上げて弓矢を放つと、大波は収まり、北の陸地、蝦夷ヶ島【現在の北海道】に渡ることが出来ました。
義経の放った弓矢が刺さった岬は、矢越岬の地名の由来となり、義経と主従は海岸線を西に進み、マツオマナイの地にたどり着きます。
義経主従は近くの山に登って野宿、その山を義経山と名付け、お堂を建てて、無事に難局を逃げ切った感謝として千体仏を安置し、山を義経山と名付け、石碑も掘りました。
光善寺山門と義経山碑
堂は義経山 欣求院として創建しますが、明治2年の箱館戦争の兵火で焼失してしまい、戦後、欣求院は光善寺に合併されてしまいますが、義経の掘ったとされる義経山の石碑は光善寺に残され、800年前の義経と主従の苦難を現在に伝えます。
北海道道南の支庁を渡島(おしま)と呼びますが、これは、本州から渡って来る人達のことを、渡党と呼び、それが渡島と変わり、今は渡島(おしま)と呼ばれます。
古くから伝わる義経と主従に代表される島を渡る行為が北海道道南の支庁、渡島支庁および渡島地方の由来となりました。
義経主従が松前を去った後、戦国時代には、若狭 武田氏の流れを継ぐ武田信広がこの地に渡り、アイヌと抗争状態にあった蠣崎氏に組みしてアイヌを敗り、蠣崎氏の婿養子となった武田信広は蠣崎信広となり、蠣崎氏は五代 慶広のとき、松前氏と名を変え、幕末まで君臨します。