苫小牧市【とまこまい し】
苫小牧市は胆振地方最大の人口約17万の中核都市で、製紙業、港湾の街として知られています。
商船三井、太平洋フェリーなど、本州から多くのフェリー会社が苫小牧港を寄港するフェリーを運行しています。
また、余談になりますが、夏の甲子園、全国高校野球大会で北海道代表校として初めて全国制覇(翌夏も優勝し連覇)した駒澤大学付属苫小牧高校のある街でもあります。
苫小牧市の街の興りは、江戸時代の後期 1799年 寬政11年、江戸 八王子の甲州街道を防衛する千人同心の頭、原 半佐衛門が弟と共に蝦夷地勤務を願い出たことから始まります。
その八王子千人同心とは、天正時代、豊臣秀吉の北条征伐により関八州を含め、江戸に移封された徳川家康により、隣国 甲斐国(山梨県)との国境防衛を目的に組織されました。
千人同心は、織田信長による甲斐 武田討伐の際に徳川家康により庇護されて召し抱えられた者が大半を占め、八王子近隣の郷士、地侍として平時は農民として田畑を耕し、有事の際は出陣する組織として成立しました。
このため、徳川将軍家への忠誠心が強く、幕末に徳川家を守るために上野で戦った彰義隊の隊士や新撰組の局長 近藤 勇も千人同心の近藤宗家の出身でした。
話を千人同心頭の原 半佐衛門に戻します。
1800年 寬政12年
原 半佐衛門と弟、新助に約100名が与えられ、現在の苫小牧の東の勇払(ゆうふつ)郡に入植しますが、極寒の地での寒さと栄養失調により開墾は放棄され、わずか4年余りで離散する結果となりました。
再びこの地に人の往来が増えるのは、明治時代になってからでした。
勇払郡に入植した土佐(高知)藩によって少しずつ開拓されます。
苫小牧~とまこまい~の名の由来は、アイヌ語で~マコマイ~奥に入る川に、沼の意味の~ト~を掛け合わせたものとされ、沼とは、苫小牧市の北東にあるウトナイ湖を指すとされます。
こうしてト、マコマイと名前が浮上し、漢字に宛てる際に、政府の開拓使の手違いにより、マイの字を枚とするところを牧の字と誤植してしまい、苫小牧という字が宛てられました。