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日本歴史紀行

現代語訳 徳川実紀 21  鳥居忠吉、密かに米銭を貯える。



鳥居氏発祥地碑

愛知県岡崎市 渡町


元信君は元服前に一度、増善寺の等膳和尚の計らいで密かに帰郷し、父の菩提を弔って以来、今回は義元の許しを得て正式に三河の御曹司として、堂々と松平元信が帰郷された。


ここ岡崎に鳥居伊賀守忠吉といって先代から御家人となり、いまは八十歳余りの老人がいた。

この老人は、今川家から岡崎の御領のことを執り行うよう命令された。ただ、租税は今川が無理矢理奪っていたので、徴税奉行の忠吉は百姓らの不満を抑えるのに日々苦心していた。

忠吉の御家 渡党は、元は平 清盛から平姓を許された熊野別当行範の子孫がこの地に土着して渡里姓を名乗り、一時は海運、商工業などで隆盛となった。

さて、徴税奉行の忠吉は、今川の目に届かないところで徴収した米銭をこっそりと鳥居の倉庫に貯え置くこと数年に及んだ。

個人の蔵に隠し置くことで、もし露見したとしても、鳥居一族の横領として罪を被る覚悟であった。


晴れて元服して帰郷した元信に対面した忠吉は喜びを抑えきれず、元信の手をとって城の倉庫へ案内した。

なんと、蔵の奥には米俵と銭が山の様に積み上げられていた。

さらに別棟の土蔵には、武具や馬の鞍まで隠してあった。




~私が長年 今川殿に内緒でこのようなことをしましたのは、若君がすぐにでもご帰国されて出馬されるとき、御家人を育み、軍用にも事欠かないようにするため、このように備えて参りました。晴れて出馬の折りにはこの蔵にお出で下され。私は齢 八十となり、余命幾ばくも無いでしょうが、今、若君の尊顔を生前に拝し申し上げられたことは、生涯これ以上の喜びはございません。~

と老眼に涙を浮かべて申し上げたので、元信君も長年の忠義心に加え、資財まで用意していたことに感動され、色々とねぎらわれた。


加えて忠吉は、元信君の帰郷に同行した倅の彦右衛門(元忠)に、そなたは前に若君に縁側から蹴落とされたことを不満気に手紙に認めたが、若君が家来に遠慮無く兄弟の様に振る舞われたのだ。これは若君こそ大器の表れである。生涯 若君に尽くされよと諭された。




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