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日本歴史紀行

歴史紀行 81 ‐ 9 平家滅亡の地 平宗盛公 胴塚 9

平宗盛公 胴塚
滋賀県野洲市大篠原



平宗盛…偉大な父を持った凡庸の倅の運命でしょうか。


朝廷貴族なら、その凡庸でも生き抜くことは出来たのでしょうが、朝廷内で渡り歩くため、貴族化したとはいえ、平家は武家でした。


源氏が雌伏の末に各地の在地武将を抱えて挙兵した時、壮健な平清盛であれば押さえ込めた可能性もあったのでしょうが、源氏嫡流という貴種ながら、人を束ねることに長けた頼朝、木曽山中で野武士の如く鍛えた義仲、軍略と奇策に長けた天才の義経の三者が相次いで牙を向いた時、清盛は病に倒れ、源氏と全国の武将らの恨みを一身に背負う羽目になったのは、凡庸な宗盛でした。


父、平清盛があらゆる謀略の限りを尽くし、鳥羽、崇徳、堀川、後白河、二条、六条、高倉の歴代の帝と時の朝廷の間を渡り抜き、心血を注いで獲た盤石の地位を、頼朝、義仲との戦いでの連敗に怯えた末に無為無策で都落ちした代償は、一門の滅亡と、間もなく訪れる自らの命でした。


捕らわれた宗盛は都に連行され、町民らの嘲笑と怨嗟の眼差しを受けながら引き回されました。


頼朝は一門の総大将、宗盛と嫡子、清宗の身柄を鎌倉へ護送することを義経に命じます。


宗盛は京を発つ前、義経に懇望し、次男の副将丸(能宗)との対面を果たします。


宗盛が溺愛した能宗、行く行くは嫡男 清宗は大将軍、次男の能宗には副将軍とする夢を込めて名付けられました。

宗盛のあまりの能宗への溺愛ぶりを見た義経以下、源氏の郎党達が頼朝へ報告があったことは想像出来ます。



義経は命に従い宗盛、清宗父子を護送しますが、鎌倉入りを許されず腰越に足留めされる中、宗盛は鎌倉で頼朝の尋問の末に京へ送り返されることとなります。


かつて頼朝を助命するために奔走した池禅尼。
前年末に頼朝に身柄を預け、母、池禅尼の血の繋がりから平家一門で唯一助命され、頼朝からは恩人の子として歓待され、旧領も返された平頼盛とは余りにも違いました。


元暦2年6月21日(1185年7月19日)、京へ目前の近江、鏡宿辺り。宗盛らを護送する義経に、鎌倉からの早馬が頼朝からの書状を携えて来ました。

宗盛父子を斬首せよ。というものでした。





近江 鏡宿


鏡宿はかつて遮那王を名乗る義経が野盗を蹴散らして武勇を示し、元服した自身の誉れある地でした。

この鏡宿を処刑で汚したくないと考えたのか、
宗盛から清宗、能宗を引き離し、京、大原から高徳の僧、本性坊湛豪を呼び寄せ、義経はさらに先を進んだ篠原の林の中で念仏を唱えさせ、元は平家の家人で後に頼朝に仕えた典厩〜右馬允、橘公長により斬首されました。

嫡子、清宗は引き離された後に近江、草津で斬首。

次男、能宗は京、六条河原で斬首され、ここに平家嫡流というべき宗盛の系譜は絶えました。


自らは池禅尼の恩と清盛の気まぐれにより助命されましたが、頼朝は後の禍根の息吹きを断つことに躊躇はありませんでした。






平宗盛首洗池〜蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)
篠原の林から平家一門が沈んだ西を望む方角にある池〜宗盛公の首はこの池で洗われ、あまりの酷さに池の蛙も鳴くことが無くなったそうです。
















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