品川御台場 (第三台場跡)
東京都港区 台場 1- 10
1853年 嘉永 6年 6月3日、ペリーの来航により、江戸幕府は外圧により泰平の世の眠りを覚まされました。
ペリーは脅しの様な開国の要求を残して翌年の来航を予告して去りました。
この事態に慌てた幕府は、以前から海防について意見を出していた伊豆国 韮山代官の江川太郎左衛門英龍を召し出し、江戸湾内の防衛対策に当たらせます。
江川英龍は、江戸湾内を巡視し、品川から対岸の有明にかけて入り江にあたる部分に砲台を設置する御台場の築造を計画します。
第三台場
第三台場火薬庫跡
第三台場砲台跡
第六台場
西洋砲術と西洋の築城術を独自に学んでいた江川太郎左衛門英龍は、入り江から侵入してくる艦船に砲撃を加えて江戸市中を守るというもので、この案は直ちに採用され、嘉永6年 8月、江川英龍の指揮により、11基もの御台場の建設が始まりました。
御台場建設には75万両の予算を投じ、約五千人の人夫が雇われて昼夜問わず行われ、翌年 嘉永7年7月には品川洲崎(旧品川猟師町)から対岸の有明の深川洲崎に最大規模の第一、第二、第三の三つの台場が竣工しました。
さらに12月、第五、第六の御台場が第一、第三台場の間に小規模ながら竣工し、さらに陸上の台場として、かつて将軍の鷹狩場だった品川御殿山に御殿山台場が竣工し、陸から有明にかけて、ほぼ一直線に台場が竣工したところで築造中の台場の建設は終了しました。
1年後の来航を予告していたペリー提督が、幕府12代将軍 徳川家慶の病没を知り、期限を早めて8ヶ月後に来航した際は、竣工していた台場からの砲台群を警戒し、江戸前への入港を避け、当時、寒村だった横浜に艦隊を入港させました。
竣工した六基の台場は、徳川将軍家に近い親藩、譜代大名を中心に警備を命じられ、幕府が終焉を迎える1868年 慶応4年まで防衛にあたりました。
明治になると台場の管轄は陸軍省から海軍省に引き継がれ、大正時代に東京市に払い下げとなり、第三、第六台場を残して埋め立てられました。
第三台場は周辺が埋め立て地になったことから陸続きとなり、お台場海浜公園内の国指定史跡として現在に残されています。