清水次郎長 像
静岡市清水区 南岡町 梅陰禅寺
時代の流れで生き方や身分が変わる人物は様々ですが、清水次郎長も江戸から明治という時代の流れで、まったく違う生き方をした人物も珍しいでしょう。
清水次郎長(本名、山本長五郎)は、1820年 文政3年 に清水の美野輪で生まれました。
伯父の山本五郎八 の養子となり、五郎八の伜(せがれ)の長五郎だから次郎長だとして、いつしか次郎長と呼ばれるようになります。
若い頃の次郎長は、けんか、博打に明け暮れ、縄張りを広げ、ついには街道一の大親分と怖れられます。
やがて日本は、幕末 明治維新と時代の大転換期を迎えますが、次郎長も自身の人生を大転換させることとなります。
暴風を避けるために清水湾に入港した幕府海軍の咸臨丸が官軍の攻撃を受け、艦上にいた兵士が死亡し、遺体は海に投げ棄てられます。
官軍を怖れ、地元民すら遺体を引き揚げようとしないなか、次郎長が子分を引き連れて現れ、兵士の遺体を収用して埋葬まで行ないました。
後日 駿府藩に呼び出され、事情を問いただされた次郎長は、死んだら皆仏様、仏様には官軍も幕府軍もありません。それでも処罰されるなら、次郎長は喜んで罰を受けましょう。と答えました。
この時、次郎長を取り調べたのが山岡でした。
この一件で 勝海舟 、西郷隆盛の江戸城無血開城の会談を実現させるべく奔走した幕臣、山岡鉄舟は次郎長の男気に惚れ、また次郎長も西郷隆盛いわく山岡鉄舟先生は、金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ困った人だ。
その様な人でなければ偉業を任せられないと言わしめた幕府側の傑物、山岡鉄舟を歳も10歳以上年下ながら終生変わらぬ師と仰ぎ、人生の大転機をはかります。
次郎長の晩年は事業奉仕に邁進する人物となり、清水港の振興に奔走し、波止場堤を増築して清水港を外海港へと発展させ、相良油田の開発、三保半島の塩田開発、住居船宿 末広の建設。
私塾を開き、日本初の英語塾を開き、富士裾野で大開墾事業を行い、お茶、杉、檜、小麦などを開墾しました。
二人の親交は鉄舟が病没するまで続きました。
山岡が次郎長に贈った【精神満腹】の書。
次郎長が山岡に悟りとは何かを問い、山岡が答えたのが精神満腹です。