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日本歴史紀行

静岡物語 3 江川英龍、韮山反射炉を建設







世界遺産 韮山反射炉

静岡県伊豆の国市 中 字鳴滝入


江戸時代 鎖国を続け、泰平の世を謳歌していた日本ですが、1853年 嘉永6年ペリー艦隊が浦賀に姿を現したことで、幕府もついに国防体制を強化せざる負えなくなりました。

幕府は蘭学に精通し、鉄製大砲の鋳造、生産、西洋砲術の訓練、西洋式の築城術を導入した台場を設置しての防衛対策の必要性を問いた幕臣で韮山代官の江川太郎左衛門英龍の建議を受け入れ、鉄を精製する反射炉の建設を命じました。


江川英龍は黒船来航前から反射炉の研究を進めていて、幕命を受け、直ちに建設に取り掛かりました。





反射炉は、高さ約15.7mの煉瓦積みの特徴的な
連双煙突を持った溶解炉です。


構造的には、燃焼室と溶解室からなる炉本体と
煙突からなり、石炭や木炭などの燃料をロスト
ル部分で、千度を超す温度で燃焼ドーム状の天井に熱や炎を反射させて鉄を溶解します。

高い煙突により口内にたくさんの
15メートルを超す煙突で多くの空気を取り込み、大量の鉄を溶解します。

溶けた鉄は炉内の傾斜にしたがい出湯口側に流れて溜る構造となっています。








石炭投入部




溶解鉄投入部




反射炉本体の構造

反射炉本体は、内部を包む天井がドーム状になっている炉体部と煉瓦積みの高い煙突から成り、地上からの高さは 15.7メートルにもなります。

煙突の外観は上部に向かって徐々に細くなっていますが、煙道は同じ広さです。
煙突内部の煙道は人が一人入れるほどです。


煙突が15.7mの高さを必要としたのは、燃焼時に人力に頼らず、自然送風により多くの酸素を取り入れることで燃焼効率を高めるべく確保するためで、反射炉本体の築造技術は長崎から輸入されたオランダ製の大砲の鋳造法を翻訳して参考にしました。


ただ、基礎部分の建設には古くから伝わる日本の技術も用いられ、西洋技術の導入と国内での基礎工事に松杭を使用するなど在来の土木技術の併用が伺えます。


反射炉建設当時は煙突部の煉瓦の表面に漆喰が塗られ、反射炉はまるで白亜の塔でした。











反射炉は当初、伊豆 下田に近い本郷村で基礎工事が進められましたが、1854年 安政元年3月、下田に来航したペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入した事態を受けて江川英龍が代官として治める韮山の地に反射炉の建設地に変更します。


本郷村に用意された建設のための石材を韮山に運び、鉄の鋳造に必要な千度を超える良質な煉瓦の生産を伊豆 梨本村(現在の河津町)に定め、ようやく始まった反射炉の建設ですが、翌 安政2年に江川英龍が病に倒れ、この世を去ります。


反射炉建設は韮山代官 江川家を継いだ息子の江川英敏が引き継ぎ、佐賀藩の技師の協力も得て英龍の死から2年、特徴的な二連双の煙突2基を備えた反射炉がついに竣工しました。



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