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長田忠致(ながた ただむね) 屋敷跡、湯殿跡
愛知県知多郡美浜町野間
1159年 平治元年12月、平 清盛と平家一門の熊野詣出の留守を衝いて平治の乱を起こし、束の間の立身出世を果たした源 義朝ですが、清盛の巧みな手腕により、玉となる天皇、上皇を失う事態により自らは賊軍となって形勢は一気に逆転し、平家の拠点、六波羅で戦うも次第に劣勢となり、雌雄を決するべく、六条河原での奮戦も叶わず敗走します。
義朝は、最初に三男 頼朝とはぐれ、近江 東山道で長男 義平に再起を命じて別れ、美濃青墓で足を負傷した次男 朝長を失い、残る供回りは鎌田正清と渋谷金王丸となりました。
義朝は鎌田正清の舅、長田忠致の居る尾張 野間を目指しました。
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平治元年の暮れ、義朝一行は野間の長田屋敷を訪ねました。
長田忠致は源氏に仕える身でしたが、このまま敗軍の将となった源氏の御曹司を助けるより、平家に仕える身となって立身のきっかけを掴もうと倅 景致と示し合わせます。
すぐにも東国を目指そうという義朝に忠致は、せめて正月くらい ゆっくり逗留して旅の疲れを癒して下さいと歓待してみせ、義朝も、ならば甘えようとして逗留を決めました。
平治2年正月、忠致親子は婿の鎌田正清に酒を酌し、義朝には風呂を薦めます。
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長田屋敷の風呂は屋敷から約700メートル離れた場所にあり、豪傑の主従 義朝と正清を分断した忠致は、酒の酌の席で舅の正清を背後から、風呂で疲れを癒す義朝を湯殿に押し入って斬りかかりました。
義朝は【せめて木太刀の一本もあれば…】と無念の言葉を残し湯殿の床に倒れました。
着替えを用意しに義朝と離れていた渋谷金王丸が異変を察知した時は既に遅く、湯殿手前の橋で忠致の下僕を斬り伏せたものの、忠致を討つには至らず、主人の無念を晴らすことを誓って落ち延びました。
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乱橋跡
平治2年正月3日、忠致親子は義朝の首級を携え、恩賞の欲を胸に秘め、意気揚々と上洛して行きました。