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日本歴史紀行

 歴史紀行 地域版 86 - 5 坐漁荘 元老 西園寺公望 邸宅跡




坐漁荘 西園寺公望 邸宅跡
静岡県静岡市清水区興津 清見寺町


明治元年を迎えた1868年…
明治新政府の官軍として山陰道鎮撫総督として出雲まで軍勢を率いた西園寺公望は次いで会津討伐に参加、戦う公家としての一面を持ち合わせましたが、明治新政府による政権は、鎌倉幕府を打倒して起こった後醍醐天皇による建武の新政以来 535年振りの朝廷主導の政権を目指したものでした。



実情は江戸幕府の支配下、外様大名としての薩摩、長州藩出身の者を元藩士らを中心に、明治天皇の絶対的な権威を後ろ盾にし、なお頂(いただき)に据えた下で彼らが政策を動かす中央集権国家です。


会津討伐が会津藩の降伏により終結、旧幕府軍が箱館へ向かったものの、明治新政府による政権移譲は揺るがないものとした西園寺は江戸に凱旋します。


これからの日本の世は、海外へ目を向け、洋学などの学問を身に付けなければいけないと考えていた西園寺は、新政府より要請された新潟の府知事の職を固辞します。


旧来の公家らしからぬ海外へ目を向け、フランス留学まで視野に入れる西園寺の姿に新政府を主導する木戸孝允、大久保利通、大村益次郎らとは馬が合い、親しくなっていきました。


中でも大村益次郎は、フランスで学ぶのなら、兵学を学ぶより、政治、議会制に伴う法政を学ぶ方がこれからの日本のためになるとして、まずは長崎でフランス語を学ぶべきとして、フランス語講師の斡旋まで務めました。


この頃、西園寺は京都御所内の西園寺邸に戻り、私塾を開きます。


名は家塾 立命館
当初は西園寺に連なる者への教育を目指したものでしたが、幕末期に西園寺が開いていた学問の会が評判が良かったことから、他藩の藩士らも入塾を希望し、西園寺は私費で邸宅内に長屋を増築したほどでした。


この私塾〜立命館開塾を危険視して訝しがる勘違いしたのが京都の留守官でした。


旧来からの公家達の意を組んでいた留守官は密かに立命館を監視、西園寺が新政府に恣意で東京から上洛してきたことを理由に通告したことで1週間の謹慎処分を出させたものの、西園寺は意に介せず、謹慎明けには長崎への表勤学願を出し、許可を得ます。


明治2年11月7日
西園寺が長崎へ発つ前の、東京で親交のあった大村益次郎が上洛して来ていると知った西園寺は大村を訪ねるつもりでいたところ、運命の皮肉とでも言うかのように同じ公家の出で、親しかった万里小路通房と市中で出くわして誘われて飲食を共にします。


この日、大村益次郎は刺客らに襲われ、随伴者らも含めて殺害されています。

西園寺が大村のもとを訪ねていたら、違う未来があったのかも知れません。


西園寺は長崎へ発ち、フランス留学のための勉学に励む日々を送りますが、間もなく、立命館が差し止められる事態になります。 


理由によると、訝しがっていた京都留守官は、塾生らによる革命でも起こしかねない放言や高言がいずれ西園寺自身に害が及ぶことが無いように取り計らう措置でした。


家政からの手紙で立命館の差し止めを知らされた西園寺は、いずれ再塾の日も来ようからとして一旦措置を受け入れることにしました。


後に立命館は西園寺の秘書官、中川小十郎により再興され、立命館大学となります。
 

6に続きます。











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