坐漁荘 元老 西園寺公望 邸宅跡
静岡県静岡市清水区興津清見寺町
お公家さん
と聞いて、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
浮かぶイメージは、
上品…控えめ…声は小声…弱々しい…。
そのようなイメージかも知れません。
元老として存在感もあり、時の天皇を影ながら支えた西園寺公望は、従来のイメージを覆す公家でした。
剛毅で胆力もあり、眼光鋭く見据える眼差しはサムライそのものでした。
1868年慶応4年、鳥羽・伏見の戦いは錦旗を掲げた明治新政府軍が勝利し、将軍 徳川慶喜は江戸へ逃げる結果となりました。
明治新政府軍の3倍の兵力差を覆しての勝利は
衝撃をもたらし、4日、新政府は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に据え、さらに模様眺めを決め、去就を決めかねる西国の幕府親藩へ帰順を迫るべく軍勢を派遣することを決め、続いて西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任命し、西園寺公は5日、山陰道に向けて出陣しました。
時に満18歳の総督でありました。
西園寺公の山陰道鎮撫総督任命は、東海道・東山道・北陸道鎮撫総督の任命に先駆けたものでした。
明治新政府側が未だ帰趨の定まらない鳥羽・伏見の戦いの戦争直後に西園寺公を山陰道鎮撫総督に任じ、かつ出陣させたのは、戦争の趨勢と新政権の確立に向けたのは、これからは天皇を要として合議による政権が始まる問い極めて重要な意味をもっていました。
西国、山陰道鎮撫に赴くにあたり、西園寺公は山陰鎮撫日記を記していました。
それによると、御所を出陣した鎮撫軍は桂川を北上して都を出て、山崎、福知山、田辺(舞鶴)の諸藩に新政府帰順の誓書を出させ、日本海に出て山陰を進み、当初は鳥取までを目標に出立します。
山陰鎮撫で気になるは幕府親藩の雄、徳川慶喜の異母兄、池田慶徳の治める鳥取藩でした。
鳥羽・伏見の戦いの結果をもって藩主、慶徳が謹慎に入ったため、政務は家老が務めました。
これら、鎮撫軍の進軍は沿道の庶民には、一部において多大な労力を課す結果ももたらします。
率いる西園寺公が若いこともあり、先行、随行する薩摩、長州の藩士が錦旗の威光を笠に無理難題を持ちかけることもありました。
接待に不備があると薩長の藩士に責められた庄屋の主人が自殺してしまう細川事件が起こり、西園寺公も軍勢を率いる大将としての難しさを痛感、西園寺公は後日、帝から祭祀料を賜り沙汰やめとして収めました。
軍勢の長期帯陣は庶民への要らぬ負担を強いることを憂慮した西園寺公は鳥取以西の治安を藩に委ねることで収めようとしましたが、新政府へ恭順のために伺候してこない松江藩の去就に疑いがかけられたことにより、松江まで進軍をすることになります。
松江着陣、総督の西園寺公に対し松江藩主以下、土下座にて迎え、見聞もそこそこに、これまでの疑いを晴らすべく、御殿での接待で一行をもてなします。
なかでも、松江藩医 錦織玄丹の娘、お加代が献身的な接待を行なうことで西園寺公はともかく、薩長藩士らを宴席で慰撫したことで、それまでの疑いを一掃してしまいました。
松江藩は藩主、松平直應が勤王の誓書を提出することで西園寺公は沙汰なしとすることに決め、山陰鎮撫の締めくくりとしました。
新政府の面々は、西園寺公の御飾りに留まらない軍勢の指揮と事態を収める能力に感服し、御所に出迎えました。
慶応4年3月27日
帰京した西園寺公は二条城官代に出頭して鎮撫完了を報告、次いで御所に戻り大命を果たしました。
5に続きます。