今川義元 公像
名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園
駿河国を治める今川氏は代替わりの際に当主の座をめぐり、家中が争いに明け暮れることが度々ありました。
その争いは義元の時もそうでした。 前当主、今川氏輝の急死により勃発した花倉の乱です。
今川義元は駿河、遠江守護の今川氏親の五男として生まれました。
五男ですから、家督を継げる立場にあらず、
4歳で仏門に入ることとなり、栴岳承芳(今川義元)を名乗り、太原雪斎の弟子として京、建仁寺と妙心寺で修行していました。
1536年 天文5年、当主の今川氏輝が急死、弟の彦五郎も同日に死去したことによって今川家の家督争いが勃発します。
母、寿桂尼は実子の栴岳承芳(義元)を跡
取りとして擁立し、栴岳承芳の師だった太原雪斎も支持しますが、承芳の異母兄、玄広恵探が反旗を翻して家督争いが勃発します。
承芳(義元)、雪斎は恵探の軍勢を破り、恵探は逃亡の末に自害し、承芳は還俗して今川義元を名乗り、今川氏当主となります。
今川義元公像
静岡市静岡駅前?
義元は雪斎に絶大な信頼を寄せ、雪斎も僧でありながら、今川家の政治、軍略面で義元を支えました。
1537年 天文6年2月、今川義元は、領国の守りを強固にすべく動きます。
甲斐 武田氏と婚姻関係を成立させ、武田氏当主の信虎の長女を義元の正妻に迎え、信虎長男の晴信(後の武田信玄)に、公家出身の義元の母、寿桂尼の伝手を使い、縁戚にあたる公家、三条公頼の娘(三条の方)を斡旋して婚姻を結びます。
これにより、武田と今川は親類となり、甲駿同盟が成立します。
北の武田、東の相模 北条と和平を結ぼうとしますが、これに相模 北条氏の当主 氏綱は面子を潰されたと激怒し、現在の富士川以東まで攻め寄せて侵略し、東の北条氏とは緊張関係を生みました。
今川と武田が縁戚となったことで、武田は南側の今川の心配をしなくてよくなり、領土拡大の矛先は、北の信濃に向けられます。
今川は東の北条氏への備えを崩さず、その目は西の三河へ向けられて行きます。
西の隣国、三河 松平氏はこの当時、宗家の当主 松平広忠(徳川家康の父)が家中の分裂で国を追われ、伊勢に逃れ、流浪の末に今川に助勢を求めて三河に戻りました。
義元は松平広忠に人質を求め、差し出そうとしたのが嫡子 竹千代(後の徳川家康)でした。
ところが竹千代は、広忠の縁戚の戸田康光に奪われて尾張 織田信秀に売られてしまいます。
2年後、松平広忠が死没。(暗殺とも病没とも)
三河の領国化を急いだ義元は、雪斎を使わして三河安祥城を攻撃、守将の織田信広(信長の兄)を生け捕りにして織田方にあった竹千代との人質交換を提案して実現させ、三河 松平宗家唯一のの貴種となった竹千代を手中に納めました。