北一硝子(三号館)
北海道小樽市堺町
北一硝子(本社)
北海道小樽市花園町
江戸時代から明治にかけて、もっとも北海道で繁栄した町は小樽です。
かつて、その繁栄に沸いた小樽の街は、産業も経済も他の街、とりわけ札幌に奪われてしまい、いつしか斜陽の街と呼ばれるようになりました。
ただ、小樽市は観光に活路を見出し、自慢の海産物に最近ではチーズケーキといったスイーツやあんかけ焼きそば といったB級グルメと様々な食に彩られ、また、多くの観光客を魅了するのが美しいガラス細工です。
その小樽繁栄のルーツは、ニシン漁でした。
ニシンは食用としてだけでなく、田畑の肥料として日本中で需要が続き、群来【くき】と呼ばれる早春のニシンの産卵期には小樽の海が白く染まり、網を上げた浜は銀色に輝いていました。
明治時代になると北海道開拓が本格的に始まり、多くの開拓民がまず上陸するのは小樽の港でした。
自然と開拓のための道具や開拓民の生活物資
などの需要が高まり、さらに物資の集積拠点として港のある小樽は漁業と商業の町として発展し、明治13年には、東京 新橋ー横浜間、大阪ー神戸間、に続く日本3番目の鉄道【幌向鉄道】が小樽ー札幌間で開業し、物資の流通拠点としても重要視されました。
北一硝子の前身、浅原硝子が創業したのは、幌向鉄道が開業し、さらに小樽の町が盛況になりつつあった1903年 明治36年のことでした。
創業者 浅原久吉は、生活の必需品、照明用の石油ランプの製造、販売を手掛け、さらに、漁業用の硝子製の浮き玉の製造を行い、豊漁に沸くニシン漁の一助となります。
やがて浅原久吉(二代目)の次男、健蔵 氏が浅原硝子の小売部門として独立し、浅原硝子店を立ち上げました。
浅原硝子店開店後の当時、小樽市で須原という名字が比較的多かったことから、電話に出ると〜浅原と須原をよく間違えられた経緯が発端となり、絶対に聞き間違いの無いであろう〜北一硝子〜と店名を変えたとのことです。
ランプや浮き玉は、時代が昭和になるとランプは電気の普及により、浮き玉はプラスチック製にとって変わられ需要は激減したため、北一硝子は活路をライフスタイルを彩るアンティーク製品や小物に見出だし、現在は小樽を訪れる観光客に幅広く支持されています。
長年
北一硝子の前身、浅原久吉による浅原硝子店創業〜1900年と伝わってましたが、浅原久吉の長男(二代目 浅原久吉)の系譜になる別会社、現在の浅原硝子製造所の系図再点検による訂正があり、創業1903年、明治36年として、この記事を書かせていただきました。