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蛤御門の変~(禁門の変)
1864年 7月19日(元治元年8月20日)
時代は幕末、徳川14代将軍 家茂の治世下。
尊王攘夷の急先鋒だった長洲藩が前年の8月18日の政変により京都御所を追われ、処分撤回と京都守護職の会津藩主の松平容保の排除を狙って御所に押し寄せました。
やがて にらみ合いの末、会津藩、桑名藩らと開戦となります。
御所に向けての発砲により、長洲藩は朝敵となり、攻防は一進一退となる中、西郷隆盛率いる薩摩藩が会津藩に援軍に加わると形勢は逆転します。
攻撃を主導した来島又兵衛は戦死。長洲藩兵は逃亡し、立て籠った久坂玄瑞は自刃し、決着がつきました。
蛤御門は長洲藩と会津、桑名藩がにらみ合いの末に戦端が開かれた門で、ここから始まった戦いは、やがて京の町を戦火に包み込み、第一次長州征伐へと動きます。
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3年後、この戦いで会津の援軍として長洲を追った薩摩藩は薩長同盟で長洲と結んで倒幕に転じ、同じく会津と御所を守った大垣藩はその尖兵として会津討伐に参戦と、目まぐるしく立場を入れ替えます。