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十九首塚
静岡県 掛川市 大池 十九首塚史跡公園
平将門は、同族の所領争いを発端に戦いを拡大させ、ついには関東一円を支配下におき、自らを新皇を名乗り出したために、朝廷から討伐される身となり、過去、将門に討たれた平 国香の子、平 貞盛、縁者の藤原秀郷に将門は討たれました。
平将門を討ち取った藤原秀郷は、京都に凱旋する際、将門以下の一族郎党の首級を持って一路 西上して京に向かっていました。
そして遠州のこの地に到着した時に、京都から首実検のために派遣された勅使が到着します。
秀郷は勅使を出迎え、川に近い ここで持参した将門主従19名の首実検を行いました。
ところが首実検が済むと、勅使は将門と郎党の首を打ち棄てるように命じました。
将門主従は、朝廷に対して激しい恨みを持つ者の首なので、京に持ち込むことはならぬという理由でした。
それに対して秀郷は【 将門主従は討伐された逆臣とはいえ、将門は桓武帝に連なる高貴な身、死者に鞭打つことは出来ない 】と言って、この地に手厚く葬りました。
これが十九首塚であり、また首級と共に持ってこられた剣、白と黒の犬の描かれた2本の掛け軸、念持仏も近くの東光寺に納めたといわれ、そしてこの首実検の際に首を川に並べ掛けたところから、この地を【掛川】と呼ぶようになった説があります。
将門主従19の首は、それぞれ塚に葬られたものの、時代の推移とともに郎党の塚は忘れ去られ、現在は将門のものとされる首塚だけが残され、そして近年になって残りの者の名を刻んだ石碑を周囲に配して整備され、建立されました。
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十九首塚被葬者
相馬小太郎将門【平 将門】
御厨三郎将頼
大葦原四郎将平
大葦原五郎将為
大葦原六郎将武
(平 将門一族)
鷲沼庄司光則
武藤五郎貞世
鷲沼太郎光武
堀江入道周金
御厨別当多治経明
御厨別当文屋好兼
隅田忠次直文
東三郎氏敦
隅田九郎将貞
藤原玄茂
藤原玄明
大須賀平内時茂
長橋七郎保時
坂上逐高
(将門郎党)
井伊直親終焉の地
また、この地は戦国時代後期の永禄5年12月14日、遠江の井伊谷郷の国人領主 井伊直親が今川家の重臣、掛川城主の朝比奈泰朝の一味に襲撃され、討死しました。
直親は井伊宗家19代当主として、井伊家を継ぐも、主君筋の駿河 今川氏が桶狭間の戦い後に弱体化すると直親の離反を疑い、直親が弁明に駿河へ向かう道中、掛川城下で襲われました。
直親は後の徳川四天王、井伊直政の父で、この時 直政はまだ乳飲み子〜幼名、虎松で、当主を失いし井伊家は、前当主 直盛の娘が直虎を名乗り立て直しを計り、一粒種の虎松を三河、鳳来寺に預けて雌伏の時を過ごしました。
虎松は後に徳川家康に見出され、井伊万千代として徳川家に仕え、井伊家再興を果たします。