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日本歴史紀行

現代語訳 徳川実紀 6 織田信秀 三河へ侵攻


織田信秀、土田御前、吉法師像


織田信秀 三河へ侵攻


天文十七年
このころ、武勇に優れた道閲入道(武勇に優れた五代当主、松平長親)も亡くなられ、織田信秀の喜びは大変なものであった。


~今ならば、三河を侵略することは容易い~と、まず安祥城を攻め落とし、その子 信広にあとを守らせ、筒針に砦を構え、上和田城に内応に応じた松平忠倫、上野城に酒井将監忠尚、松平清定、山中城の松平重弘と、岡崎城は敵に囲まれ孤立して大変危険になった。


三河は大いに乱れ、明けても暮れても互いの戦が止むことは無かった。


当時、筧 平三郎重忠は、岡崎の御家人だったが、偽って上和田城の松平忠倫に降参し、親しげにに近づき忠倫を刺し殺した。


今回の反逆の首謀者であった忠倫が討たれたので、岡崎方は大変喜び、織田方は援助を失って信秀は大変怒った。


そうであるならばと、信秀は自ら大軍を率いて三河に出陣し、岡崎を攻め抜こうと戦支度をする様子が伝わり、岡崎では防ごうとしたものの、多勢に無勢。


今川義元の元へ援兵を要請した。


義元がこれを聞いて人質を求めてきたので、竹千代が六歳でいらっしゃるのを駿府に人質に出すと決めて、石川数正、天野康景、平岩親吉ら守り役とし、阿部甚五郎正宣の子 徳千代を遊びの友として遣わされる。









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