本日、凶弾に倒れた安倍晋三元総理大臣の四十九日を迎えました。
あらためて安倍晋三元総理大臣のご冥福をお祈りいたします。
安倍晋三の人間性を垣間見える出来事を再掲載します。
2011年、あの年、日本は民主党が政権を担っていました。
国民の支持を失った自民党に対し、月額2万6千円の子供手当や高速道路無料化、ありとあらゆる魅惑的なマニフェストで国民を欺いて選挙で大勝し、政権を奪取した民主党。
民主党最初の鳩山由紀夫内閣は、今や語りぐさとなる〜最低でも県外〜発言に始まる沖縄米軍基地移設問題は…アメリカ、オバマ大統領に対しての〜トラストミー〜(私を信用して)発言などで同盟国アメリカを疑心暗鬼にさせ、またたく間に支持を失い、1年も持たずに退陣し、菅直人が総理大臣となりました。
その後を引き継いだ菅直人内閣も、迷走とかつての自民党顔負けの権力闘争を繰り返し、挙げ句の果てに菅総理自らの外国人献金疑惑が浮上し、国民が当初抱いた民主党政権への期待は地に落ちました。
その菅総理が国会内で吊る仕上げを喰らうはずだった国会内に、午後2時46分、激しい揺れが起こりました。
国会中継のテレビ画面からもその揺れは伝わり、時を置かずして大地震を知らせる放送に切り替わりました。
東日本大震災でした。
その後の菅政権の混乱と迷走とお粗末さは知っての通りです。
2011年4月7日、震災発生から1か月近く経ち、被害の全容が少しずつ明らかになって行き、被災者が避難所で寒い生活を強いられている中で、安倍元総理は食料品や毛布、それにニーズの高かった衛生用品などの物資を大量に満載したトラックの助手席に乗り込み、東北の被災地に向かいました。
安倍元総理は仙台市内の自民党事務所で現地の被害の説明を受けた後、津波で甚大な被害を受けた地区に向かいました。
仙台市内はガラスが割れた程度の家屋被害だった街の景色は、宮城県を南北に縦断する仙台東部線を越えると状況は一変します。
道路西側の家屋は道路による盛り土が防波堤の役割りを果たしたようだったものが、道路の東側〜つまり海側のほぼ全ての家という家がコンクリートの基礎部分を残して根こそぎ流された惨状が広がりました。
やがて津波が引いたかつての住宅街には、無数の車や家の残骸が残されました。
瓦礫を避けながら道の無い道を縫って安倍元総理を載せたトラックは避難所に到着しました。
避難所に着くと、安倍元総理はまず責任者に挨拶し、静かに中に入って被災者一人一人に声を掛けて歩きました。
〜今、一番必要なものは何ですか。
〜食料品や子供のお菓子、生活用品も持って来たので、遠慮なく使って下さい。
突然の元総理大臣の訪問と声掛けに、多くの被災者が驚くものの、安倍元総理は予定していた全ての避難所を回りました。
最後の避難所、宮城県亘理町の避難所を回った時のこと、ここでも安倍元総理は一人一人に声を掛けて歩いていると、一人の少女が声を掛けてきます。
〜おじちゃんは東京から来たん?偉い人?
誰もが人の表情を忘れてしまっていた避難所の中でニコニコ微笑みを絶やさない優しい顔をした少女でした。
〜そうだよ、お菓子もたくさん持って来たから、後でみんなで食べてね?お名前は何て言うの?
〜小野望美。小学生だよ。友達があっちに居るから来てくれる?
望美ちゃんに促される様に安倍元総理が付いて行き、望美ちゃんの友達を加えて雑談になっていると、側で炊き出しを食べていた中年女性が泣き出しました。
〜望美ちゃんはね、お母さんを津波で亡くしたのに…それなのに笑顔を絶やさないで、いつもニコニコ、みんなを元気にしてくれるんです。
小野望美ちゃんの母は、瓦礫の中で足が木に引っ掛かかっていたために津波の後、海に引き戻されることもなく、遺体が見つかりました。
安倍元総理は、
〜望美ちゃんが今、一番欲しいものは何?
〜小学校が津波で使えなくなって、会えなくなったお友達がいるの、また みんなで同じ学校に通えるといいなぁ。
言葉に詰まる中、安倍元総理は答えます。
〜そうだね、お友達と離れ離れじゃ寂しいよね。どうやったら、またみんなで一緒に勉強できるようになるか、一生懸命考えてみるね。
翌年の暮れ、選挙に大勝して政権を奪い返した自民党、安倍元総理が政権のトップに戻りました。
総理大臣として復活した安倍総理は、最初に訪問する地を亘理町を選びました。
やがて避難所から親戚の家に身を寄せている望美ちゃんを訪ね、こう話しました。
〜おじさんは避難所で望美ちゃんと最初にあった時の約束を忘れてないよ。望美ちゃんの小学校は、新しい建物になって、またみんなと一緒に通える様になるよ。
程なくして小学校が新しくなって通学路を友達と歩く望美ちゃんの姿がありました。
この事はメディアに公表されず、安倍総理が政権に返り咲いた後の所信表明演説により徐々に明らかになることになるのです。
安倍総理(当時)第2次安倍内閣発足に際し、所信表明演説の後半の一部
東日本大震災の被災地は、二度目の厳しい冬を迎えています。
私は、昨年末に総理に就任した直後に、最初の訪問地として、迷うことなく福島を選びました。そして、先日は宮城を訪れ、これからも、可能な限り現地に足を運ぶつもりです。
被災地のことを思うとき、私は、ある少女とその家族の物語を思い出さずにはいられません。
東日本大震災で、小学校三年生だった彼女は、ひいおばあさんとお母さんを亡くしました。悲しみに暮れる家族のもとに、被災から二カ月後のある日、一通の手紙が届きます。それは、二年前、少女が小学校に入学した後に、お母さんが少女にないしょで書いた、未来へ宛てた手紙でした。
手紙には、入学当初の苦労話の後に、こうつづられていました。
「げんきに学校にいってくれるだけで、とてもあんしんしていました。このてがみを みんなでよんでいるところを たのしみにして、これから おかあさんは がんばっていきます」。
この手紙を受け取ったのは、私がかつて被災地で出会い、先般、再会を果たした少女です。その際、彼女は、私の目をじっと見詰め、小学校を建ててほしいと言いました。過去を振り返るのではなく、将来への希望を伝えてくれたことに、私は強く心を打たれました。
ふるさとの復興は、被災地の皆さんが生きる希望を取り戻す作業です。今を懸命に生きる人々の笑顔を取り戻す、それは、その笑顔をただ願いながら天国で私たちを見守っている犠牲者のみたまに報いる道でもあるはずです。
復興という言葉を唱えるだけでは、何も変わりません。
まずは、政府の体制を大転換します。これまでの行政の縦割りを排し、復興庁がワンストップで要望を吸い上げ、現場主義を貫きます。今般の補正予算においても思い切った予算措置を講じ、被災地の復興と福島の再生を必ずや加速してまいります。
あとがき
政権交代以前、数多くのマニフェストで国民を欺き、やがて公約違反を繰り返した民主党。
コンクリートから人へ!
そんな謳い文句に国民もメディアも踊らされ、かつて批判の象徴だった盛り土で造成された高規格道路により、いくつもの命が救われ、事業仕分けにより、工事中止を余儀なくされた八ッ場ダムは、自民党が政権を握ると工事を再開。
数年後に襲った未曾有の大雨で大規模な被害が心配されるも、満々と雨水を溜め込むダムの姿がありました。
真のマニフェストの意味を、安倍元総理の少女との約束と行動で思い知らされました。