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源 義朝 公像
愛知県 知多郡 美浜町 野間田上
1156年 保元元年
保元の乱で父、為義と袂を分かち、後白河天皇方に付いた源 義朝は、平 清盛ら、平家一門と共に戦って勝利しました。
戦勝後、義朝は左馬頭、従五位下となり、貴族の末席という身分に昇りましたが、対する平家は、清盛が播磨守、清盛 嫡男の重盛も義朝より官位が高い従五位上と、父や弟らと敵対してまで得た恩賞は、義朝がとても満足するものではありませんでした。
義朝は更なる高みを目指し、乱の後、朝廷の実力者として君臨する信西に近づこうと考え、信西の息子を婿に望みますが、信西に拒絶され、怨みを抱きます。
義朝は代わりに朝廷の権中納言、藤原信頼に接近します。
【 文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし。】
と平治物語で酷評される信頼が朝廷で高い官位を得ていたのは、後白河天皇による寵愛があればこそでした。
義朝と信頼は、互いの出世を阻む共通の敵である信西の排除を密かに狙い機会を伺います。
平治の乱
1159年 平治元年12月4日、
平清盛が一門を引き連れて紀伊の熊野詣でに出かけます。
12月9日、義朝は後白河上皇の御所、三条殿を襲撃して連行し、その足で二条天皇も連行して幽閉します。
朝廷の異変を察知した信西は寸前で内裏を脱出するも、京の山中で進退を窮まり、首を斬って自害します。
義朝らのクーデターは一応の成功をみますが、政治的な駆け引きに長けた平 清盛は、熊野から帰京すると信頼に恭順する振りをみせて油断させ、機会を伺います。
平 清盛は、信頼の反乱に加担しながらも、信頼自身を快く思わない二条天皇の親政派を抱き込み、彼らの手引きで幽閉されていた二条天皇と後白河上皇を
脱出させ、平家の本拠地である六波羅に迎えます。
天皇を奪われた義朝らは一転して賊軍の汚名を着る身分となり、平 清盛と雌雄を決して戦いますが、多勢に無勢でした。
三人の息子達を連れ、再起を胸に東国に落ち延びました。