東大寺 戒壇院
奈良県奈良市雑司町
753年 、天平勝宝5年、日本の求めに応じるべく、足掛け12年におよぶ歳月をかけ、五度の渡航失敗の末に失明してもなお日本を目指した唐の高僧、鑑真和上が九州 薩摩に上陸、日本の土を踏みました。
折しも聖武天皇の詔(みことのり)により、
東大寺の盧舎那仏(大仏)が造立され、開眼供養が行われた翌年のことでした。
754年天平勝宝6年、鑑真一行が平城京に入京すると大歓迎を受けました。
鑑真の来日の真の目的は、日本の僧らに戒律を授けるためで、まず、待ちかねた聖武天皇が東大寺大仏殿の前の土壇(戒壇)で鑑真から戒を授かりました。
戒律とは~
仏教の守るべき掟で、大きく戒と律に分けられる。
戒
~内面的な道徳観のこと
(善行に生きる、悪事を働かない、など。)
律
~仏教教団、宗派で守るべき内規のことで、
もし破ると教団、宗派からの追放されるなど。
戒壇院は、鑑真和上が大仏殿前で戒律を授けた土壇(戒壇)を大仏殿西部の地に移して伽藍を建立し、戒壇院としました。
建立された戒壇院には、広目天、増長天、多聞天、持国天の四天王立像が建立、安置されました。
重要な戒壇院の伽藍も、平家による南都焼き討ち、松永 三好の兵火により焼失し、現在の伽藍は江戸時代に再建されたものです。
東大寺 講堂跡
奈良県奈良市雑司町
講堂は、僧が説法を行ったり、講義、勉強を行うための建物で、東大寺の講堂は、大仏殿の裏手(大仏殿の北側)に建立され、回廊を通じて繋がってました。
講堂は917年 延喜17年に火災、1180年治承4年に平家による南都焼き討ちにより焼失、さらに1508年永正5年にも火災に見舞われ、三度目の焼失以降は再建されることはなく。焼失当初の礎石が残るのみとなりました。
現在は広々とした遺構を杉、楓の木々が芝生一帯を囲んでいます。
東大寺 転害門
奈良県奈良市雑司町
正倉院の西、現在は東大寺境内の枠から外れた場所にひっそりと建つ転害門は、762年 天平宝字6年 造営と伝わる東大寺創建以来唯一の建物で、1180年 治承4年 平安末期の平家の南都焼き討ち、1567年永禄9年 室町末期 戦国時代の松永 三好の戦いによる兵火の延焼を免れた数少ない遺構です。
東大寺の鎮守、手向山(たむけやま)八幡宮での祭祀、転害会(てがいえ)が出発点とすることから、この名がつきました。