三船遭難慰霊之碑
北海道留萌郡小平町字鬼鹿広富
小平町のランドマーク、道の駅〜おびら鰊番屋の向かい側に念願の松浦武四郎像を見つけた時、その喜びを打ち消す存在の石碑がこの三船遭難慰霊之碑でした。
三船遭難とは、大東亜戦争も終結に近づく昭和20年8月8日深夜に遡ります。
日本とは中立の立場を取っていたソビエト連邦(現在のロシア)が対日宣戦を布告して満州、そして樺太南部に攻撃を開始。
このうち、ほぼ戦闘能力の尽きていた日本軍が必死に応戦する間に8月13日、樺太、大泊港から日本人疎開船として、宗谷丸、小笠原丸、泰東丸、第二新興丸の4隻の船が出港します。
最初に樺太を離れた宗谷丸は難を免れたものの、終戦後に出港した後続の三船〜小笠原丸、泰東丸、第二新興丸は、稚内に寄港した後に小樽港を目指します。
この際、小樽を目指していた小笠原丸から、船酔いが酷いために稚内で一組の母子が下船して難を免れます。
この母子の姓は納屋。
子供は後の大相撲横綱【大鵬】こと、納屋幸喜
でした。
稚内港を出港した三隻は8月22日、途中の留萌沖でソ連軍の潜水艦の攻撃を受け、沈没します。
三船併せた犠牲者は1708名にも及び、多くの遺体が増毛、留萌沖に漂着する惨事となりました。
ソ連軍は、最高指導者スターリン書記長が8月24日までに北海道占領を命じ、北海道占領軍を留萌より上陸させるべく、通過する船を全て攻撃する計画でした。
ソ連軍の北海道上陸計画は、樺太で北海道を死守すべく奮戦した樋口季一郎中将率いる第88師団の頑強な抵抗により兵力を北海道に割くことが困難なうちに頓挫しました。
碑文
「昭和20年8月15日 太平洋戦争終る 終戦後7日 昭和20年8月22日早暁の海は波穏やかにして 微風甲板を渡る この日泰東丸 第二新興丸 小笠原丸の三船は戦乱の樺太(サハリン)より緊急引揚の老幼婦女子乗組員 5082名を乗せ鬼鹿沖にさしかかりしが突如旧ソ連軍の潜水艦による雷砲撃に遭い瞬時にして沈没或は大破し 1708名の尊き生命を奪わる 離別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍に遭う 悲惨の極みなり 星霜ここに30年我等同胞慟哭の海に向かい靈鎮まらんことを祈りつつこの碑を建つ 昭和50年8月22日 樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会」