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日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 3 ‐ 5 静岡市清水区 5






山岡鉄舟 像

静岡県静岡市清水区村松 鉄舟寺


山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末動乱の中で徳川家の窮地を救うべく奔走し、ついには目前となった新政府軍の江戸総城攻撃を参謀として駿府に来ていた西郷隆盛に談判して中止させることに成功しました。

1868年 慶応4年1月3日、前年の大政奉還によって天下の政権を返上した徳川家の息の根を止めるべく、薩摩藩や長州藩それに岩倉具視らを中心とした公卿を加えた倒幕派による王政復古の大号令【クーデター】によって新政府を樹立、さらに、それまで江戸での放火、略奪等の挑発を耐え続けていた幕府も開戦を決意します。 ここで京都で勃発したのが鳥羽伏見の戦いです。

幕府軍1万5千に対して新政府軍は約五千と開戦当初は3倍もの兵力差がありながらも、新政府軍は錦の御旗【にしきのみはた、きんき】を翻(ひるがえ)すと状況は一変し、幕府軍は敗れ、将軍 徳川慶喜は江戸に逃げ帰りました。

新政府軍は、鳥羽伏見の戦いから江戸に逃げた徳川慶喜を追討する名目で東征軍を興こし、江戸城総攻撃を1868年 慶応4年 3月15日と決めて軍勢は江戸を目指しました。

3月9日
そこで東征軍 参謀の西郷隆盛をたずねたのが山岡鉄舟でした。

歴史の一大転換期に勝海舟と西郷隆盛の会談がありますが、その会談の仲介役を果たしたのが山岡鉄舟でした。


後日、西郷隆盛は勝海舟に、山岡は命も名も金も要らぬ困った人だと語り、そんな人が居ないと天下の大偉業は成し遂げられないと 伝えたそうです。

明治維新後の山岡鉄舟は、旧幕臣らの救済に奔走し、さらに街道一の大親分と恐れられた清水次郎長を引き立て、彼を社会事業家に転身させる等、様々な活躍を見せました。

また、西郷隆盛に再三再四請われ、明治天皇の侍従を10年の約束で務め、山岡が病没した折には、遺骸を載せた車が皇居宮殿を通ると、明治天皇は宮殿前に停車させ、10分間の目礼をもって見送りました。





鉄舟寺 山門



本堂



鉄舟像と供養塔


鉄舟寺は、仏教渡来から間もない推古朝の時代に久能寺として、渡来人〜秦氏の後裔にあたる久能氏が現在の久能山東照宮のある日本平の南麓の有度山に建立されましたが、戦国時代になると武田信玄の侵攻により久能城を築く際に移築され、現在の場所に落ち着くも、明治維新後に廃絶の状態にあったのを山岡が再建に奔走したものの、道半ばで病没しました。

その後、清水次郎長や清水の魚商、柴野栄七ら有志の熱意により再興されました。

寺宝に国宝の平安後期、鳥羽法皇による法華経(久能経)、源義経が牛若丸の童より愛用した薄墨の笛などがあります。













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