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源 頼朝、義経 対面石
静岡県駿東郡清水町八幡 八幡神社
平治の乱で敗れた敗軍の将、源義朝の死は、戦いに参じた長男の義平(斬首)、次男の朝長(敗走の末 自害)、三男の頼朝(流罪)のみならず、四男の義門が平治の乱で戦死、五男の希義(まれよし)も四国に流罪、六男の範頼は当時、身分の低さ故に存在そのものが世に知られずに秘かに育てられ、
当時、絶世の美女と謳われた常盤御前を母に持つ幼子だった七男の今若〜全成(ぜんじょう)、八男の乙若〜義円、それに九男の牛若〜義経は常盤の助命嘆願により平清盛の気まぐれにより助命、出家させられ、源氏の血筋は滅亡の危機を僅かに脱しました。
九人の男児で一際、異才を放ったのが末子の牛若でした。
都の北、鬼門を鎮護する鞍馬寺に預けられた牛若は稚児名〜遮那王を名乗り、出家を頑なに拒み、夜な夜な鞍馬の山で平家打倒を胸に武芸に励む小柄ながら精悍な若武者となり、やがて15歳を迎える頃、鞍馬寺を脱し、自ら元服の儀を執り行い九郎 義経を名乗り、金売り吉次に伴われて北の王国〜奥州 藤原氏に身を寄せました。
当時の、奥州は黄金の国として知られ、藤原氏の政治力もあり、大いに栄えていました。
藤原氏三代当主、秀衡は平泉を平安京の都に次ぐ都市を築いた傑物で、前に進み出た九郎 義経を一目見るや、只ならぬ才気と同時に頼もしくも感じ入り、直ちに長兄〜国衡、次兄ながら嫡男の泰衡、三男の忠衡に引き合わせ、実子と隔てなく養育することにします。
北の王国、平泉に放たれた九郎 義経は、毎日 馬で駆け、弓を射て、さらに武芸に磨きをかける若武者として育ちます。
義経が平泉で約五年の歳月を過ごした治承四年(1180)八月、義兄〜頼朝が打倒平家を掲げて挙兵したと伝わり、藤原氏家中も騒がしくなると、義経は居ても立っても居られなくなります、達観した政治家でもある秀衡は義経の異変を見抜き、時勢を見定めるべきと諌めますが、義経のはやる気持ちは日に日に増大し、ついに平泉を出奔します。
義経の無断の出立を知った秀衡は、致し方無しと、股肱の臣、佐藤継信、忠信兄弟を呼び、これよりは義経を主君として補佐せよと命じて送り出します。
秀衡が案じた通り、挙兵した頼朝は次戦の石橋山の戦いで惨敗して箱根山中を逃げ彷徨う流浪の落ち武者如く有り様で、僅かな運と人の助けにより安房国に逃れていました。
追いついた佐藤継信、忠信兄弟と僅か十数騎ばかりの供回りを得た義経は義兄、頼朝の元を目指します。
2に続きます。