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日本歴史紀行

歴史紀行 86 源義経 終焉の地 高舘義経堂


高舘義経堂
岩手県西磐井郡平泉町 平泉柳御所


文治3年(1187年)10月29日、莫大な黄金の財力を背景に平清盛、後白河法皇、源頼朝を向こうに巧みな政治力を以て君臨した陸奥の王者、藤原秀衡が亡くなりました。


秀衡の亡くなる直前に義経が平泉に入ったことを確信した鎌倉の源頼朝は、討伐の対象である義経の引き渡しを要求するも、秀衡の一存で拒否し続けました。


平家無き今、西の憂いの心配を無くした頼朝が、やがて関東の軍勢を率いて北の広大な奥州の地を狙うと見越し、義経を大将の柱に据え、我が子の泰衡、国衡、忠衡の3人を副将にして支えれば、天賦の才を以って鎌倉武者を蹴散らすことも出来ると考えました。


3人の息子の母の身分の格差から、兄弟間の不仲を知る秀衡は次男、泰衡の母を長男、国衡に嫁がせて義父、義子の縁を結ばせるといった絆の構築に加え、我が身亡き後は、九郎義経殿を大将軍と仰ぎ、奥州十七万騎を預けて鎌倉に備え、国の仕置きも仰いで兄弟力を併せば藤原の都も安泰であろう。と遺言し、世を去りました。

偉大な父の遺言に、兄弟それぞれの思惑が分裂を生み、それが平泉の悲劇へと繋がります。




2に続きます。






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