ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

静岡県静岡市駿河区、谷田「茶樹やぶきた母樹」(県指定)です!!

2025-01-31 06:37:41 | 文化財・樹木
 谷田地区は、静岡市役所の東北東約6km、駿河区役所の北東約5kmのところに「谷田宮の後公園」が有ります

 公園の東側道路沿いに「茶樹やぶきた母樹」(県指定天然記念物)が有ります

 駿河区役所南側の「駿河区南八幡町」信号を東北東へ、SBS通りです

 約3.5kmの「東豊田小西」信号を右(東)hえ、池田街道です

 約2.2kmで右手に「谷田宮の後公園」がります、先の押し釦信号のある交差点を右(南東)へ坂道を上っていくと

 右手に目的の「やぶきた原樹」の看板が見えます

 すぐ先の右手の駐車場入り口に車を止めさせて頂きました

 南東側から

 説明版です
   静岡県指定天然記念物「茶樹やぶきた母樹」解説
 この木は、茶の優良品種である”やぶきた”の母樹です。
 ”やぶきた”は、安政4年7月ここ有度村(うどむら)に生まれた故杉山彦三郎翁(1857~1941)が選んだもので、収穫量と製茶品質は最もすぐれ、その名は全国的に有名です。
 翁はその一生を茶の品種改良にささげ、全国の茶生産地を踏査して良樹の選定につとめ、幾種もの優良種の選抜に成功しました。
 この母樹は、たまたま竹やぶの北側にあったので”やぶきた”と命名されてものです。
 現在各地の茶産地には、この木の分身が植えてつけられ、わが国茶業の発展に寄与しています。
 そして昭和38年4月30日県の天然記念物に指定され、県文化センターの建設にあたり”やぶきた”母樹の所有者である杉山彦三郎翁顕彰会から県に対し寄贈されました。
 このため”やぶきた”の母樹誕生の地と、翁の栄誉を永久にたたえるため、静岡市谷田159番地からこの地に移植しました。
        昭和43年4月 杉山彦三郎翁顕彰会・静岡県

 *開発された当初はなかなか普及しなかったが、霜に強い上、在来品種よりも早い4月下旬から5月上旬に一番茶の収穫ができ収穫も安定していたことから、50年近くたった昭和30年(1955)に静岡県の奨励品種に指定されたことをきっかけとして急速に普及しました。(Wikipediaの一部引用)

 東側から

 北東側から見ました

 では、次へ行きましょう


 2025・1.23・8・30
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静岡県静岡市駿河区、安居「石蔵院のお葉付きイチョウ」(県指定)です!!

2025-01-30 18:37:34 | 巨樹・大木
 ここからは、2025年1月23日から静岡、愛知、三重に行ってきましたので、順次一日2回の投稿を再開したいと思います

 安居地区は、静岡市役所の東南東約8km、駿河区役所の東躍5kmのところ、久能山東照宮から南西側の太平洋沿いの地区です

 駿河区役所南側の「駿河区南八幡町」信号を北東へ、SBS通りです

 約800mの「駿河総合高校前」信号を右(南東)へ、県道384号久能街道です

 約2.4km太平洋岸の「大谷放水路西」信号を左(東北東)へ、国道150号線です

 約2.5kmの「古宿」信号を左(北)へ入り、直ぐに右(東北東)へ、国道と平行に進む細い久能街道(国道150号線の古道に当たる道路)です

 約1,1kmで左手に石蔵院の参道が南向きに開いています

 「安居山 石蔵院」の寺号標です
 
 すぐ左に東向きに建つ「井出八郎右衛門の墓」です

 説明版です
   石蔵院と井出八郎右エ門
 元和2年(1616年)4月17日、将軍職を秀忠に譲った後も、大御所として君臨していた徳川家康が、75年の波らんに富んだ生涯を駿府城で終え、遺言により、その亡きがらが久能山に葬られることになった。
 4月19日、葬儀の行列が、この石蔵院の前を通り過ぎた後、一人の武士が割腹して果てた。この武士が井出八郎右エ門である。
 井出八郎右エ門は、家康の厩の舎人(乗馬の口取りなどを勤めた役人)であったが、永年の知遇に報いるため、この石蔵院の門前で、家康葬儀を目のあたりに見て割腹殉死したのである。
 舎人という身分の低い武士であはったが、家康から受けた永年の恩顧を忘れなかった井出八郎右エ門の忠誠心は、後の世までも人々の語り草となっている。
 久能街道に面した石蔵院所有地の一角には、井出八郎右エ門の墓(右)や地蔵堂(中央)と並んで、彼の忠誠心に心を打たれた多くの人々の手によって、昭和の初期、顕彰碑(左)が建てられたのである。
         静岡市

 石蔵院の参道です、参道を進むと

 山門です

 山門脇の道路沿いに駐車スペースがあります

 山門に左手境内に目的の「お葉付きイチョウ」です

 山門を入ると右手に六地蔵様です

 南東側からお葉付きイチョウです

 南側から見上げました

 東側から

 説明版です
   静岡県指定天然記念物
     石蔵院のお葉付イチョウ
       昭和29年1月30日指定
     目通り 4.7m、樹高 30m、根廻 6m、枝張 南北 22m・東西 21m
 慶長年間(1596~1615)に石蔵院の開山良尊禅師の手植えと伝えられている。
 このイチョウは、雌木で葉の上に結実する現象が見られる。このようなお葉付イチョウは全国に極めて少なく、植物形態学上の資料として貴重なものである。
   昭和59年5月31日
            静岡市教育委員会・静岡県教育委員会

 *2025年1月30日(投稿日)は、昭和29年(1954)1月30日の指定日から71年となりました
 

 幹や枝には多くの「乳柱(気根)」が見られます

 本堂前から見ました

 本堂です

 鐘楼です

 イチョウの南側には「拓友之碑」です

 説明板です
   聖鍬の魂
 われわれ262名は、昭和19年5月19日、満州開拓青年義勇隊として、神田定中隊長を聖鍬の師と仰ぎ、旧満州国東満総省勃利県勃利訓練所第2大隊第7中隊に入所した。
 思えば当時14・5才の、紅顔可憐な少年ではあったが、その双肩には鍬の戦士として、戦時下の国策である北辺の護りと食糧増産という重い使命がかかっていたのである。
 終戦により、大志なかばにして使命は破れ果てたが、生死をとのにした拓友の絆は固く、今もなお、開拓の精神は、われわれの胸の中に生きている。
 ここに、異国の丘に骨を埋めた友の霊、安かれと祈り、若き日の純粋な情熱を偲び、あわせて永遠の平和な世を希い、同志の浄財と汗により茨城県内原訓練所入所の日を卜して聖鍬の魂の碑を建てる。
      昭和46年3月15日    神田中隊拓友同志

 *満州開拓青年義勇隊は、一般的(Wikipedia)には「満蒙開拓青少年義勇軍 」とされ、日本内地の数え年16歳から19歳の青少年を満洲国に開拓民として送出する制度であり、満蒙開拓団に代表される満蒙開拓民送出事業の後半の主要形態です。
 朝日新聞デジタルの記事には、生還された方の取材記事がのっています


 では、次へ行きましょう



 2025・1・23・7・50
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神奈川県座間市、栗原中央4丁目「栗原神社のシラカシ」は伐られてしまいました!!

2025-01-30 06:46:07 | 巨樹・大木
 栗原中央4丁目は、座間市役所の南東約1.5kmmのところ
 
 座間市役所の西側の道路を南東へ、間も無く県道42号線となって進みます

 約1.2kmで、斜め左(南東)へ入って市道60号線に成ります

 約200mの中栗原歩道橋の先で左(北)へ入ると東向きに鎮座する「栗原神社」前に出ました

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 栗原神社の社號標です

 掲示板に御神木伐採のお知らせです
   御神木(シラカシ)伐採のお知らせ
 この度、地元の皆様、氏子の皆様にお詫び申し上げます。
 永く地元の皆様、氏子の皆様に、愛され、親しまれておりましたが神木(シラカシ)が昨年初めより急に樹勢が衰えて来ました。
 市認定の樹木医(長澤利教様)に観て頂き、今年3月に枯れてしまったとの診断を受けました。
 50年前に樹齢700年の初代御神木”大杉”が枯れてしまい2代目としてシラカシが御神木として、又、県指定の銘木100選、市の天然記念物として、皆様に愛されて参りました。
 令和2年9月に枯れ病を起こしてしまうシノナガキクイムシが付いてしまっている事を安全安心推進会・小林会長にお知らせ頂き、今年2月迄いろいろ手を尽くしてまいりましたが、残念な結果となりました。
3月22日に座間神社平賀権禰宜様の祭祀により、御神木(シラカシ)の御霊抜き、お祓いを行い1mの高さを残して伐採いたしました。
 謹んでお知らせ致します。
     栗原神社  総代長 大矢一則・世話人一同

 手水舎です

 パワーストーン「千引の石(ちびきのいわ)」説明版です
 道反大神が宿るとされる千引の石です。
 黄泉の国で禁忌を犯し逃げ帰えようとする伊邪那岐命が、黄泉比良坂まで追いかけてきた伊邪那美を千引の石を坂に引き、道を遮断して追い返したその石に、道反大神と名付けました。
 過去からの災いを断ち、再出発の力を道反大神から、頂いて下さい。

 拝殿です

 本殿です

 すぐ南側にシラカシの切株です
 (伐られてしまいましたが、2024年1月20日現在グーグルマップのストリートビューで2022年12月の姿を見ることが出来ました)

 南東側から、注連縄が巻かれています

 標柱です
 シラカシ跡
   昭和53年12月23日 市指定天然記念物指定
   令和 5年 4月17日 市指定天然記念物指定解除
 かつてこの場所にシラカシの大木があり、護王の大欅とともに市内最古のものでした。
 昭和53年に市指定天然記念物に指定され、近隣に住む人々の手で大切に守られて来ましたが、令和5年に枯死したため、伐採されました。
 現在は、残された切株が往時を偲ばせるものとなっています。
     令和6年3月31日   座間市教育委員会

 もう一面には、指定時データです
 幹回り(目通し)3.6m、樹高 約20m、枝張り 約20~22m、推定樹齢 約500年

 拝殿北側の初代御神木大杉の記念碑です
    栗原神社御神木記念碑
 謹んで按するに、当大杉は往昔山王大権現の御神木なりしが、明治6年栗原地内の(龍造社、若宮社、絹張社、握戝神、山王社)諸社を合祀し、栗原神社と改称せられ、栗原全域の総鎮守の御神木として諸人敬神の的とり、明治、大正、昭和の御代まで永々として存続して来ました。
 偶々昭和17年当社神楽殿新築の議越こるや、此の由緒ある御神木を代採其の資に供せんとす、其の際、森田家非常に之を惜しみ、希特の行為により栗原神社に奉納せらる仇あい此の危を免れる事を得たり。
 爾来益々枝葉繁茂し、社殿の荘厳を保持して来ました。
 然るに昭和37年以降先端より枯れ始め順次下枝へ波及し、樹勢次第に衰え、仝40年以降第一枝のみ存続す。
 翼41年春以来全枝枯れ、遂に尊き樹齢を終わる。據なく氏子全般に計りし処、伐採の協賛を得仍て、神奈川県神社庁に伐採の許可を申請。
 翼42年6月19日此の由緒ある御神木も、愈々樹齢を全し遂に伐採される。誠に名残り惜しい極みなり。
 斯く偉大なる御神木を偲び、後世に傳えん為氏子総意のもとに一基を建立して、永遠に記念する者也 謹白
     昭和44年12月 建  氏子中    責任者 渋谷孫市
    附記 樹齢約七百数十年・年代不詳・周囲目通り 13尺2寸(4m)・全長 90尺(27m)

 では、今回の取材は終わりにして埼玉へ戻ります

 また一日2回の投稿を開始したいと思います、今夜にも、次の投稿をしたいと考えておりますので宜しくお願いいたします
   
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神奈川県伊勢原市、伊勢原2丁目「大福寺のクスノキ」(県指定)です!!

2025-01-29 06:46:37 | 巨樹・大木
 伊勢原2丁目は、伊勢原市役所の西南西約1kmのところ

 「伊勢原市役所前」信号から北西へ進んで、約100mで国道246号線の「伊勢原市役所入口」信号を左(西南西)へ、国道を進みます

 約700mの「伊勢原」信号を左(南)へ、県道61号線です

 緩く左にカーブするように約200mで右手に大福寺の参道が北東向きに開いています

 ここを入って、山門前の参道脇に車を止めさせて頂きました

 浄土宗

 大福地の参道入口です

 マンションの間の参道を南西へ進みす

 山門です、グーグルマップの「大福寺の大クスの写真一覧」では、屋根が壊れていましたが帆布で覆われています

 「浄土宗 田廣山 大福寺」寺号標です

 山門の南側の通路から境内に入って内側から山門です

 本堂前に目的のクスノキです

 右手のお堂の屋根は壊れてしまったままに成っています

 幹に大きな穴が開いて、ここに有った大枝が、山門やお堂の屋根を破壊しています

 北側から、目通り幹囲6.9mの巨木です

 本堂です

 *浄土宗寺院の大福寺は、田廣山最勝院と号します。
  大福寺は、性蓮社榮誉空華(寛永8年1631年卒)が開山となり元和6年(1620年)に創建、深蓮社心誉辨故が寛文元年(1661年卒)に中興したといいます。(新編相模国風土記稿による大福寺の縁起です)
 「山号 田廣山・院号 最勝院・寺号 大福寺・本尊 阿弥陀如来像」ですが、前の住職が亡くなってから無住に成っていたようです


 本堂前の西側から

 南西側から

 南側から

 東側から見上げました

 境内端には枝がの一部が集められています、天然記念物標柱は見当たりませんでした

 では、次へ行きましょう
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神奈川県伊勢原市、大山「大山阿夫利神社社務局境内のクスノキ2本」です!!

2025-01-28 07:03:19 | 巨樹・大木
 大山地区は、伊勢原市役所の西北西約6kmの所に「」があります

 「伊勢原市役所前」信号から北西へ進んで、約100mで国道246号線の「伊勢原市役所入口」信号を越え、県道64号線を進みます

 約1.1kmで東名高速道路の下を潜って直ぐ「川上橋」信号を左(西南西)へ、高速道路の北側道路です

 約1kmの信号機を右(北西)へ、県道611号線です

 約900mの石倉橋」信号を左(南西)へ下って直ぐの「大山入口)信号を右(西北西)へ、まだまだ県道611号線の新道です

 道成りに約3kmで「鈴川」の左岸側へ赤い橋を渡ります「大山旧参道」です、橋を渡って直ぐ左手に駐車場がありますので車を止めました

 両側に宿坊や旅館が並ぶ坂道を約150m上って行きます

 大山阿夫利神社社務局への入り口です

 坂道を上がると左にクスノキの大木です
 
 正面の建物は「祖霊社(祈禱殿)」です

 大山阿夫利神社の社務局境内案内図です

 奥の三階建てのような建物が社務局の建物です

 広い駐車場の東端近くにも大きなクスノキが見えます

 説明版です
   県指定無形民俗文化財
     大山阿夫利神社の倭舞及び巫女舞
       指定日 昭和28年12月22日
           昭和51年10月19日再指定
 倭舞(やまとまい)と巫女舞(みこまい)は、ともに大山阿夫利神社の神楽舞(かぐらまい)として神前に奉納されるものです。
 この舞は、阿夫利神社祠官の権田直助が明治6年に奈良の春日大社の神官富田光美から伝授され、大山へと伝えたものです。
 倭舞は11曲、巫女舞は9曲が現在継承されています。
 倭舞には、4人で舞うものと、1人で舞う六位舞(ろくいまい)があります。
 腰に刀をさし、手には榊や扇を持って舞います。
 巫女舞には、4人または6人の童女で舞うものと、1人で舞う白拍子舞(しらびょうしまい)があります。
 額に花かざしを付け、5色の布を垂らした鈴や扇を持ちます。
 倭舞・巫女舞とも篳篥(ひちりき)・琴・横笛・杓拍子などの楽器を用いて演奏されます。
 これらの舞は、地元の子どもたちによって受け継がれています。
 毎年8月28日の例祭には、社務局で神前に奉納されています。
   市指定重要文化財
     大山能狂言
       指定日 昭和53年6月28日
 大山能は、江戸時代に貴志又七郎によってもたらされました。
 貴志又七郎は、紀州(現在の和歌山県)の人で、観世流の名能楽師貴志貴太夫と同一人物とも、その弟子とも言われています。
 紀州からこの地にきて、多くの門弟に能楽を伝え、「大山観世」の名を生んだ大山能の開祖と言われています。
 江戸時代から大山御師たちによって脈々と守り継がれてきた大山能は、時代の移り変わりとともに衰退した時期もありました。
 しかい、明治の初めに「大山能楽社」が結成され、そのご昭和53年に大山能楽社保存会がつくられたことにより、大山能狂言は現在も演じられちます。
      平成17年3月   伊勢原市教育委員会


 振り返って入口脇のクスノキを見ました

 駐車場東端近くのクスノキを北西側から
 
 北東側から

 南西側から

 直ぐ北側には勝海舟神社ですの祠です

 説明版です
   勝海舟神社の由来
 勝海舟は1822(文政6)年1月、徳川旗本小普請組勝小吉の長男として江戸本所亀沢町に生まれ、幼い頃父に連れられて大山詣をしました。
 剣と禅を島田虎之助に、蘭学を永井青崖に学び、黒船来航の際に提出した海防意見書が採用されて藩書調所に出仕し、長崎海軍伝習所で和蘭人教師団と起居を共にして航海、造船等を学び、咸臨丸艦長として日本人初の太平洋横断に成功、米国社会を見学して帰国。
 神戸軍艦操練所頭取となり、海軍孰を開いて坂本龍馬らを育てました。
 鳥羽伏見の戦いで朝敵とされた徳川慶喜の委託で、海軍奉行並、陸軍総裁となり西郷隆盛と会見、江戸を無血開城して平和裡に社会進歩の道をひらき、庶民を戦火から守り外国の内戦介入を防ぎました。
 この頃、後に大山中興の祖となった権田直助の神保町名越舎孰を訪ねて、明治新政についての意見を求め親交を結びました。
 明治維新以後は徳川家と旧幕臣の生活を守り、日清戦争と台湾併合、朝鮮侵攻に反対してアジアの協力発展の道を説き、田中正造らの足尾鉱害反対運動を支援しました。
 1899(明治32)年逝去。享年77才。
 戦後、洗足の勝海舟別邸内にあった祠が道路改修で撤去を余儀なくされ、菊池武次、浜田定吉氏の話を聞いた目黒潔宮司と小生夢坊天狗講総講元が相談して大山に移築、勝海舟の功績を称え、祭神とし祠に神格を与えて阿夫利神社末社としました。
 1975(昭和50)年5月、盛大に御鎮座祭が行われました。
 天狗講第50回に当たり茲にその由来を記します。
     平成13年5月26日  大山阿夫利神社・文化集団 天狗講 

 *「かながわの名木100選」に選定されている「大山阿夫利神社のカシワ」(目通り幹囲2.43m)を見に来たのですが・・・見つけられませんでした

 では、次へ行きましょう
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神奈川県秦野市、平沢「御嶽神社の千年の大ケヤキとケヤキ」(市保存樹指定)です!!

2025-01-27 06:41:22 | 巨樹・大木
 平沢地区は、秦野市役所の西南西約1kmのところ

 秦野市役所南側の「水無川通り」を西北西へ進み、約600mの「本町中学校前」信号を左(南西)へ、水無川を緑風橋で渡ります

 約800mで一時停止の丁字路を右(北西)へ、約200mで「出雲大社相模分祠」の参道南側の第二駐車場に車を止めました

 御嶽神社は、出雲大社相模分祠の参道の直ぐ西側に並んでいます

 南側の道路から御嶽神社の境内を見ました

 御嶽神社社號標です

 境内に入ると右手に手水舎です

 説明版です
   御嶽神社
     祭神  倭建之命(やまとたけるのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこ)・少名彦命(すくなひこのみこと)・櫛真知命(くしまちのみこと)
     境内社 金毘羅八幡社・山王稲荷天神山之神合祀社
 由緒沿革 創立年代は不詳だが、建久3年(1192)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し(その先を北条と言う。大化班田条理の名を今も残す)平沢村の鎮守であった。
 境内には樹齢800年余の大欅2本(秦野市文化財指定木)があり、明徳3年(1392)46貫500文の当社家領が寄進されている。
 慶長13年(1608)踊宮鈴張の地に家康公鷹狩の節当社に参拝、社殿の改修を命じた。翼慶長14年(1609)に改修、棟札に「奉修御嶽権現社檀事本願神主草山兵庫守、寺家分草山藤左ヱ門慶長14年酉年11月吉日・・・」とある。
 現在の本殿はその時のもので、神職は白川家の配下であった。
 宝永8年(1711)2月23日宗源宣旨により正一位御岳蔵王権現と称えられ(当社古文書)明治6年7月3日上地し、御嶽神社と改称、昭和9年幣帛料共進指定神社となる。昭和51年5月3日本殿を除き全社殿を新築木造銅版葺とした。
 神社庁指定結婚式場は、明治13年出雲大社国造千家尊福宮司と後の報徳二宮神社初代祠宮草山貞胤翁によって勧請され、大国主之命を祭神とする大社造り神殿を式殿としている。
 この式殿は、貞胤翁より草山文之助翁に引き続き、草山智義翁に引き継がれ智義翁は、片岡の信徒を始め多くの崇敬者の再建願望を自分の心とし再建に努力他界に際し、長男貞胤にその遺志を引き継がせた。
 昭和47年御嶽神社の隣接地に本殿を再建、昭和54年8月幣殿・拝殿・参集殿の竣工式を執行、結婚式場は神奈川県神社庁の指定を受け現在に至る。
   八坂神社
     祭神  須佐之男命・大国主之命
     境内社 道祖神社
 由緒沿革 創立年代は不祥であるが、別名金毘宮と称し、境内には樹齢800年を超える大欅2本があり市の指定木である。
 昭和8年の台風時に倒木した杉樹の年輪は985輪あった。
 寛政元年(1459)酉年4月の社号額「金毘羅大権現は神祇宮資延王謹書」とあり、文政2年(1819)作の手水鉢及び同年の石燈籠一対がある。
 神輿は寛政2年(1461)の作で、西光寺遷宮師時代、寺社の往復に奉仕した。
 明治2年西開戸鎮座牛頭天王社(往古天王畑にあり)明治6年西光寺持八坂社を合祀し八坂神社と改称して独立したが、氏子民は八坂様とも金毘羅様とも称し親しんでいる。
 昭和51年御嶽神社の社殿を移築改造して現神社となる。

 笑顔の「厄除けえびす」様です

 説明版です
   厄除けえびす
 平成23年9月21日関東地方に襲来した戦後最大級の台風15号は、神奈川県に大きな災害をもたらしました。
 御嶽神社に於いても南側に立つ樹齢300年の欅が倒され神輿蔵・拝殿・えびす様を直撃し多大な被害を受けました。
 しかし不思議なことに木をどかすと、えびす様の姿は何処にもありません、皆で周囲を探すと5m先の琴毘羅神社の横でいつもと変わらぬ笑顔で座っておられました。

 左手に神楽殿のようです

 目的の「千年の大ケヤキ」です

 拝殿です

 本殿覆い屋です

 千年の大ケヤキを南側から

 南東側から

 西側から

 説明版です
   保存樹木(指定第1号) ・ ケヤキ(二レ科)
   目通り周囲 4.8m ・ 指定昭和49年9月30日
 八坂神社
   御祭神 須佐之男命・大国主命
   八坂神社の創立年月日は不祥。
  当社の社殿は昭和42年、御嶽神社新築の際、古い社を移築したもので、昭和60年、屋根は銅版葺きとした。
  疫病除けの御利益をもつとされる。
 御神木 千年の大けやき
  御嶽神社の境内には秦野市文化財指定木である樹齢千年余と500年余の御神木の大けやきが二本ある。
  千年大けやきの腰の位置には大きなコブが生えており日照りの際、御神木のコブを引っ張ると伊勢原の大山より恵みの雨が降るとの伝承がある。平成になり老朽の為、取り除かれた。


 千年の大ケヤキの北側には八坂神社です

 八坂神社社殿です、社殿の裏側にもう一本のケヤキがあるようです

 御嶽神社と八坂神社の間に「ヤブツバキ」です

 平成22年開催の第61回全国植樹祭で皇后(現上皇后)陛下がお手播きになった、ヤブツバキの種の母樹ですね

 もう一本のケヤキです

 保存樹標柱です、こちらの方が目通り幹囲5.0mで太いですね

 北側から見ました

 こちら側の駐車場は、出雲大社相模分祠第三駐車場でした、東側への通路には露店が並んで賑やかでした

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神奈川県南足柄市、怒田「自得寺のナギ」(かながわの名木100選)です!!

2025-01-26 07:06:00 | 巨樹・大木
 怒田地区は、南足柄市役所の北約1.5kmのところ

 南足柄市役所北側の出入り口を右(東)へ出て、道成りに北東側へ進みます

 約1.2kmの「切通し」信号を斜め左(北西)へ入って、またすぐ斜めの道路へ「南足柄高等学校」側に登って行きます

 約700mで丁字路を左(南西)へ、またすぐ先約50mで道成りに右(北西)へ

 約150mで左手に自得寺の参道入口が東北東向きに開いています

 すぐ先の庫裡への道路入口に目的の「ナギ」の木です

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 北東側から

 南東側から

 「市指定文化財 ナギの木」の天然記念物標柱です

 かながわの名木100選の標柱です
   神奈川県  かながわの名木100選  昭和59年12月選定
     自得寺のナギ
     和名:ナギ(マキ科)
 県内に植えられているものの中では最大と思われる。
 均整のとれた美しい樹形の古木である。
   樹高  20m、 胸高周囲3.0m、 樹齢 約300年(推定)
 ナギは、近畿南部から沖縄の照葉樹林に分布する常緑高木で、古代から神社に植えられている。
 樹高30m、胸高周囲4m、樹齢約800年に達するものもあると言われている。
 
 *関東地区では、千葉県匝瑳市野手の「円長寺のナギ」(市指定)樹高11m、目通り幹囲4.2mのものが最大のようです。
  2023年11月28日にこのブログで紹介させて頂いております。

 薄くなってしまっていますが説明版です
  ナギの木(自得寺)
 暖地の山中に自生するマキ科の常緑高木で、大木では樹高20m、幹の直径1mにもなる。
 樹皮は紫褐色で、鱗片状に薄くはがれ、そのあとは黄赤色になる。
 葉は針葉樹として珍しく楕円状卵形で、質は厚く、主脈のない多数の平行脈がある。
 5月から6月頃開花し、果実は径1cmから1.5cmの球状で、種子は11月頃成熟する。
 ナギの木は熊野信仰と結びつく霊木として、神社や寺に植えられることが多いが、関東南部以南では庭木や街路樹としても植えられている。
 この自得寺のものは均整のとれた美しい樹形をもつ古木で、大きさは県内で最大といわれる。
 樹勢も旺盛で、県の名木100選に剪定されている。
     樹高 20m、 胸高周囲 3m、 樹齢 推定300年以上
       昭和63年12月    南足柄市教育委員会
 

 南側から

 南西側の道路から見ました

 自得寺へお参りしましょう

 「臨済宗 亀原山 自得禅寺」の寺号標です

 六地蔵様です

 参道を進みましょう
 
 山門です

 山門を潜ると左手に鐘楼です

 正面に本堂です

 案内板です
   亀原山(きげんざん)自得寺(じとくじ)
     臨済宗 円覚寺派
 開山 禹玉法璨(うぎょくほうさん)大和尚
     (極楽寺4世・大本山円覚寺管長148世・永正5年(1508年)歿)
 建立 文安4年(1447年)4月
 本堂 禅宗方丈形式   県下希少の江戸時代のもの(工学博士関口欣也氏による)
 本尊 釈迦如来

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神奈川県大井町、篠窪「椎の木森のシイ」(町指定・名木100選)です!!

2025-01-25 07:29:00 | 巨樹・大木
 篠窪地区は、大井町役場の北北東約2kmのところですが、秦野市との境の山の上です

 大井町役場の東側の「けやき通り」を南へ進み、約250mで左(東)へ

 約150mで「湘光歩道橋」信号を左(北)へ、国道255号線です

 約1kmの「坊村」信号を右(東北東)へ、「めがね道」です

 道成りにつづら折りの道路を上って隧道を抜けると下ります、約1.2kmで一時停止の丁字路を左(北)へ

 約900mで横断歩道のある交差点を右(南東)へ、鋭角に曲がります

 また約100mの横断歩道の手前を左(北)へ坂道を上って東名高速の下を潜ります、県道708号線です

 道成に坂道を上って「篠窪隧道」を抜けた約1.7kmで「⇐篠窪」の標識を左(北東)へ入ります

 すぐ目の前に大きな椎の木が道路を覆う様に支柱に守られています

 手前の左側への道路脇に車を止めさせて頂きました

 南西側から、道路に突き出した太い幹を見ました

 南東側から

 根元の洞には「椎ノ神」の碑が置かれています

 東側から見ました、目通り幹囲6.75m(日本の巨樹・巨木ホームページの実測の数値)の巨木です

 南東向きに「篠窪三島神社」の参道入口です

 篠窪三島社の社號標です

「椎ノ木杜」の石碑です

 説明版です
   椎の木森と三島神社 
     大井町指定文化財 天然記念物
 篠窪部落の西方に位置し、民家に向かって、東面した、約60㌃の社林がある。
 この社林にある椎の木は自然林で、樹齢800年以上を経た大木である。
 往古は矢倉沢往還といって、相模の国府に通ずる重要な道路があり、大山道、冨士道、飯泉道に通じていた。
     指定 昭和47年10月3日
       大井町教育委員会

 かながわの名木100選の標柱です
   神奈川県  かながわの名木100選  昭和59年12月選定
     篠窪の椎の森のシイ
     和名:スダジイ(ブナ科)
 幹は斜めに伸びて枝葉は矢倉沢往還うぃいっぱいにおおい、幹にはツタがからみついて、古木の観を盛り上げている。
 森全体が大井町の天然記念物に指定されている。
   樹高  15m、 胸高周囲  5.9m、 樹齢  約500年(推定)
 スダジイは、東北南部から九州の沿岸に多く生える常緑高木である。
 樹高25m、胸高周囲15m、樹齢800年に達するものもあると言われています。

 参道石段を進みます

 立派な拝殿です

 本殿覆い屋です

 境内左手(南西側)の建物は神楽殿のようです

 本殿左手の境内社と両側の石祠です

 神楽殿の西側の椎の大木です

 南側から見上げました

 境内右手(北側)に「椎ノ木杜巨木巡り 順路入口」です

 直ぐ上の椎の大木です

 奥にも二本並んでいます

 本殿裏側上側の椎の大木です

 南側から見上げました

 杜を下って来ました、出口近くの大木です

 神社作業道の入り口にも大木が有りました

 今回の取材では、8本のスダジイの大木や巨木を取材する事が出来ましたが、まだまだ沢山のスダジイの大木が見られました

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神奈川県中井町、松本「泰翁寺のイトヒバ」(かながわの名木100選)です!!

2025-01-24 11:39:00 | 文化財・樹木
 松本地区は、中井町役場の北西約1kmのところ

 中井町役場の西側を流れる「中村川」を南西に「比奈窪橋」で渡って「中井町役場入口」信号を右(北西)へ、県道709号線に出ます

 約250mの横断歩道のある交差点を右(北東)へ、県道77号線です

 中村川を渡り返して直ぐのY字路を左(北)へ入って、すぐ先の丁字路を左(西北西)へ

 約300mで右手に泰翁寺の参道が南南西向きに出ています

 手前を右に入って直ぐに駐車場が有ります

 「曹洞宗 泰翁禅寺」の寺号標です

 参道を進むと山門です

 文化財説明版です
   中井町指定重要文化財 第13号
     泰翁寺薬師如来立像
 松本山泰翁寺と号し、曹洞宗に属す。開創は永正2年(1505年)、開山は、瑞秀祥貞大和尚(秦野市堀の蔵林寺と同開山)である。
 明治37年8月の火災で本堂、庫裡を焼失し、昭和2年に現在の本堂が再建された。
 本堂右手前の薬師堂に安置されている木造薬師如来立像は、明治初年廃寺となった城正坊成願寺にあったものと伝えられ、幾多の変遷を経て泰翁寺に安置されたものといわれる。
 その後の調査によりこの像は、その特徴から平安時代の仏像(藤原仏)であることが確認された。
 なお、本堂の裏には「かながわの名木100選」に指定された樹齢350年余りの「イトヒバ」がある。

 山門前の石仏です

 見事な馬頭観音の仏像です

 奥には六地蔵様です

 参道を進むと右手に鐘楼です

 手水舎です

 本堂です

 説明版にあったように、目的のイトヒバは本堂裏側なので本堂西側から本堂裏側の墓地へ行きましょう

 本堂と墓地の間に目的のイトヒバですが根元が見えません

 北側から、逆光です

 近付いて北側から

 北北東側から見ましたがやはり逆光です

 かながわの名木100選の標柱です
   神奈川県  かながわの名木100選  昭和59年12月選定
     泰扇寺のイトヒバ
     和名:ヒヨクヒバ(ヒノキ科)
 幹はまっすぐに伸びているが上方で2つに分かれ、枝はしだれ気味に下方に広がる円錐形である。
 樹勢は旺盛で樹容は整っていて美しい。
   樹高  25m、 胸高周囲  2.6m、 樹齢 約300年(推定)
 ヒヨクヒバは、枝が細く長く垂れ下がるサワラの園芸品種で、庭園に植えられることが多い。

 庫裡東側から見ましたが、根元は見えませんでした

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神奈川県茅ヶ崎市、浜之郷「鶴嶺八幡宮」です!!

2025-01-23 06:38:00 | 文化財・寺社
浜之郷地区は、茅ケ崎市役所の西約1.5kmの所です

 茅ヶ崎市役所北東側の時差式信号から北北西へ県道45号線です、約150mの歩車分離信号を左(西南西)へ

 約500mの「保健所前」信号を右(北北西)へ、梅田通りです

 約300mの「矢畑肥地力」信号で左(西北西)へ、鶴嶺通りです

 約700mの「鶴嶺八幡宮前」信号の所に八幡宮の参道が出ています

 すぐ西側の鶴嶺小学校手前を右(北)へ入って、鶴嶺八幡宮前の道路脇の駐車場に車を止めさせて頂き戻って来ました

 「郷社 鶴嶺八幡宮」の社號標です

 ここからが、前回からの続きです


 拝殿です

 説明版です
   鶴嶺八幡宮



 拝殿西側には境内社の「淡島神社」です

 「がん封じの祈願石」です

 本殿西側です

 この庭は座敷わらしの遊ぶ場所だそうです

 本殿西側には境内社の「鉾宮神社」です

 鉾宮神社の北西側にクスノキの大木です

 本殿北側には「みちびきの木」という御神木です

 本殿北東側には境内社の「鶴嶺稲荷神社」です

 本殿東側(稲荷神社前)のクスノキは「夫婦楠」です

 東側から見ると大小のクスノキの根元が繫がっています、間を通り抜けて本殿に祈願すると「良縁成就」とか

 本殿を東側から見ることが出来ました

 幣殿東側の切株は

 御神木の「槙」のものです

 
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神奈川県茅ヶ崎市、浜之郷「鶴嶺八幡宮のイチョウ」(県指定・かながわの名木100選)です!!

2025-01-22 06:40:35 | 巨樹・大木
 浜之郷地区は、茅ケ崎市役所の西約1.5kmの所です

 茅ヶ崎市役所北東側の時差式信号から北北西へ県道45号線です、約150mの歩車分離信号を左(西南西)へ

 約500mの「保健所前」信号を右(北北西)へ、梅田通りです

 約300mの「矢畑肥地力」信号で左(西北西)へ、鶴嶺通りです

 約700mの「鶴嶺八幡宮前」信号の所に八幡宮の参道が出ています

 すぐ西側の鶴嶺小学校手前を右(北)へ入って、鶴嶺八幡宮前の道路脇の駐車場に車を止めさせて頂き戻って来ました

 「郷社 鶴嶺八幡宮」の社號標です

 南側にも松並木が続いています

 神橋は通行止めですが、左手に通路用の橋が架けられています

 鳥居です

 参道を進みます

 参道右手は境内社の「懐島弁財天」です

 池に向かって斜めに立っているのは「昇り龍の松」です

 参道左手には「天照皇大神宮」です

 道祖神です

 「授かり石」です

 説明版です



 境内入口です

 境内右手(南東端)に鐘楼が有ります

 境内東側には神楽殿のようです


 社殿手前右手に目的のイチョウです

 参道右手、大銀杏との間に手水舎です

 南側から

 「神奈川県指定天然記念物 鶴嶺八幡宮大銀杏」の標柱です

 説明版です


 前回までは「かながわの名木100選」の標柱だったものと同じ形式の天然記念物標柱も建っています

 西側(参道)から

 北側から

 東側から

 南東側から

 拝殿です

 長く成りそうなので続きとさせて頂きます<m(__)m>
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神奈川県海老名市、大谷南2丁目「大谷観音堂(相生)のカヤ」(かながわの名木100選)です!!

2025-01-21 06:38:52 | 巨樹・大木
 大谷南2丁目は、海老名市役所の南東約1kmのところ

 海老名市役所東側の道路を南へ進みます、約700mの「大谷水門」信号を左(東)へ

 約300mで「大谷八幡宮入口」信号を右(南)へ、県道407号線です

 間も無く左手に「大谷観音」が西向きにあります

 前の広場に車を止めさせて頂きました

 大谷観音堂です

 境内右手(南側)に目的のカヤが見えます

 歌碑です・・・㋧根を張った 相生の榧に 観音堂

 説明版です
   大谷(おおや)如意輪観世音の由来
 今より800年前、治承4年(1180年)1月19日、吉岡太郎光重の妻麻子が霊夢に感じて、この地に観世音を祀り、その信仰によって授かった6人の男子は成人して、いずれも智勇兼備の武将となった。
 一族の知恵袋といわれた四男重茂は、大谷四郎と名乗り現在の大谷中学校所在地に舘を構え、深く如意輪観世音を信仰して朝夕礼拝を怠らなかった。また、攻守の備えを万全に施し、自ら大谷城と称した。
 麻子は後に尼となって堂宇を守り、当観音堂の山号を麻尼山と称した。
 光重は、宝治2年(1248年)重直のみ渋谷の庄に残し、5人の男子と一族を引き連れて薩摩の新領地に移ったが、麻尼山如意輪観世音はその後も渋谷一族の尊信厚く、代々一族の女子が住職となった。
 元亀天正の頃、このお堂は小田原の北條を攻めるため相模に兵を進めた武田信玄の兵火にかかり焼け落ち、慶長年間に再建されたという。
 本尊如意輪観世音は、奈良時代の僧行基の作と言い伝えられ、古くより安産と子育ての守り本尊として信仰され、毎月19日の縁日には近郷近在は無論、遠く甲州、武州方面からの参詣者も多かった。
 正面虹梁上の竜は、彫匠入神の作といわれ、夜毎に池の水を飲みに下りるので、眼に釘を打って虹梁上に止めたという。
 隣の十王堂の前の疣取り地蔵尊は、その足元の石で疣をこすると知らぬ間に疣がなくなるというので祈願する人が多い。疣が取れたら新しい清浄な石を添えてお礼のお参りをすると言い伝えられている。
 左手の藪の中には、別に当時、清願寺があったが、明治の初期に廃寺となり、その建物は、中河内の吉祥寺に移されて現存している。
      昭和55年11月     当所  小島直司 記
      平成20年8月5日        大泉松夫 書

 手水舎です

 北側からカヤを見ました

 かながわの名木100選の標柱です
   神奈川県  かながわの名木100選   昭和59年12月選定
     大谷観音堂のカヤ
     和名:カヤ(イチイ科)
 幹が2本に分かれた珍しい巨木で、樹林の中にあってひときわ堂々とそびえている。
 「相生のカヤ」とも言われて親しまれている。
   樹高  20m、胸高周囲  7.0m、樹齢  約400年(推定)
 カヤは、宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。
 樹高35m、胸高幹囲8m、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。


 北東側から

 東側から

 南東側から

 南側から

 観音堂です、堂の前面には謹言等の詩や教訓が書かれた額が並びます

 説明版に有った竜の彫刻ですが、目に釘が打たれているのかどうか分かりませんでした

 北側の「閻魔堂」です

 笑う閻魔様の話が記されていました



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神奈川県大和市、下和田「下和田のケヤキ」(市指定・かながわの名木100選)です!!

2025-01-20 09:13:30 | 巨樹・大木
 下和田地区は、大和市役所の南約6kmのところ

 大和市役所南西側の「大和市役所前」信号から南南東へ進みます

 約1.6kmの「大和東3丁目」信号を左(東)へ、一方通行です

 約300mで一時停止を右(南)へ出ます、国道467号線です

 道成に約6.3kmの「下和田」信号を左(東)へ進むと左にカーブして北を向きます

 約900m「スーパーマーケットOK」の直ぐ先「緑橋」の手前で左(北西)へ入り店舗の間を進み

 丁字路を右(北)へ「スーパーマーケットOK」の駐車場に車を止めさせて頂きました

 駐車場の西側に横浜市泉区と大和市との間を南北に流れる境川から段丘上へ上る道路が有ります

 道路の南側のブロック塀の中に目的のケヤキが見えました

 東側から

 北東側から

 かながわの名木100選の標柱がブロック塀に埋め込まれています
   神奈川県  かながわの名木100選  昭和59年12月選定
     下和田のケヤキ
       和名:ケヤキ(二レ科)
 屋敷林の中にあって、ひときわ高く目立ち巨木である。
 大和市の天然記念物に指定されている。
   樹高 25m・胸高周囲 4.2m・樹齢 約500年(推定)
 ケヤキは本州から九州に分布する落葉高木で、枝を広げた姿は雄大であり、日陰木として公園、街路などに植えられる。
 樹高50m、胸高周囲15m、樹齢約900年に達するものもあると言われている。


 北側から

 緑色の緑藻をカタツムリやナメクジが食べたような跡が残っている説明版です
   市指定天然記念物(記第3号)
     下和田のケヤキ
       指定年月日 昭和47年2月25日
       形状  高さ 25m・枝幅 13.1m・目通り 4.1m・根回り 4.5m
 ケヤキはニレ科の落葉高木で、高さ40m以上にもなります。
 東北地方から台湾の山地まで自生しているものです。
 県内では、沿岸部でタブノキとともに谷あいに生え、内陸では特に段丘の斜面に多くみられます。
 多くは農家の屋敷林として防風用などに残されているものですが、本来この地域には自然にたくさん生えていたものです。
 このケヤキは境川に面した段丘斜面に位置し、大津家の庭内にあります。
 屋敷林の一部となっていますが、植えたものというよりは自然に生えてきたものを残したものと思われます。
 周囲のケヤキ林の中でも、特に目につく巨木であり、神奈川県の名木百選にも数えられています。
      平成7年3月   大和市教育委員会
   

 西側から

 すぐ西側の段丘上に「下和田左馬神社」が南向き参道で鎮座します

 水盤です

 右手に鐘楼が有ります

 拝殿ですが奥まで丸見えです

 参拝順路は本殿の前を通っています

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神奈川県大和市、深見「深見神社のハルニレ」(市指定・神奈川の名木百選)です!!

2025-01-19 06:51:30 | 巨樹・大木
 ここからは、2025年1月17日取材分です

 深見地区は、大和市役所の南南東約3kmのところ

 大和市役所南西側の「大和市役所前」信号から南南東へ進みます

 約1.6kmの「大和東3丁目」信号を左(東)へ、一方通行です

 約300mで一時停止を右(南)へ出ます、国道467号線です

 約600mの「深見歩道橋」信号を左(東南東)へ、「延喜式内 深見神社」の案内板が有ります

 約400m左手の「深見小学校」校庭の先を左(北)へ入ります、「⇐深見神社入口」の案内板が有りますここも一方通行路です

 間も無く西向きの参道入口鳥居です

 鳥居の右手(南側)に砂利の広い駐車場が有りますので利用させて頂きました

 延喜式内 深見神社の社號標です

 鳥居を東へ入ると、南向きに境内入口です

 由緒説明版です
     御由緒
   深見神社(旧社格郷社)建
     御祭神  闇龗神(くらおがみのかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・建御名方神(たけみなかたのかみ)
     例祭日  9月15日
 我国の神社総覧とでもいう記録で最も古いのは、延長5年(927)に奏進された「延喜式」神名帳である。
 これに記載されている神社を延喜式内社と呼びならわし古社であることを意味し、当神社も延喜式内社で相模国に13座ある内の1座である。
 創建年代と御祭神は「総国風土記」によれば「相模国深見神社雄略天皇22年3月(約1500年前)に祭るところ闇龗神なり」と記されている。
 神社縁起によれば「武甕槌神東国鎮撫のため常陸鹿島に在られしとき、船師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子の倉稲魂神と闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。闇龗神(雨神)は美田を拓き土人を撫して郷を開かれた」とある。即ち深見の名の起こった所以である。
 後世徳川時代になると深見は旗本坂本家の知行地となり、坂本家の崇敬する鹿島神宮(武甕槌神)から分霊を受けて従来から祀られていた闇龗神は境内にある御倉稲荷神社に合祀された。
 以来深見神社の祭神は武甕槌神(武運長久)となった。
 平成24年3月に現社殿再建70年の節目として、創建時の御祭神の闇龗神を本殿に合祀した。
 明治9年、火災により社殿工作物など悉く焼失。
 明治42年、末社の諏訪神社(建御名方神)合祀
 昭和17年3月、現在の社殿再建。

 手水舎です

 拝殿です

 拝殿左手(西側)に、目的のハルニレです

 本殿です

 深見稲荷神社です

 ハルニレの直ぐ南側には靖国社です

 靖国社境内(南側)から見上げました

 説明版です
   市指定史跡名勝天然記念物(記第2号)
     ハルニレ
       指定年月日 昭和47年2月25日
       樹種    落葉高木(二レ科)
       形状    樹高 30m・ 胸高周囲 4m・ 推定樹齢 約500年
 ハルニレは夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。
 県内では丹沢山地の1000m以上の地にみられますが、深見のような低地では珍しいことです。
 このように珍しい木で、何という名の木かわからなかったため「なんじゃもんじゃの木」とよばれるようになったと伝えられています。
 葉は、鋸歯状で表面がへこみザラついています。4~5月、葉の開く前に小さな花を7~15個ほど束状につけます。
 6月には扁平な広い翼(へんべい)を持った果実が熟して落ちます。
       大和市教育委員会

 かながわの名木100選の標柱です
   神奈川県  かながわの名木100選  昭和59年12月選定
     深見神社のハルニレ
   和名:ハルニレ(二レ科)
 幹はまっすぐに高く伸び、県内でも屈指のハルニレの巨木である。
 当神社の御神木で、樹種がわからなかったので「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれて親しまれてきた。
 大和市の天然記念物に指定されている。
     樹高 30m・ 胸高周囲 4.0m・ 樹齢 約400年(推定)
 ハルニレは、北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉樹木である。
 樹高45m、胸高周囲5m、樹齢約600年に達するものもあると言われている。
 

 南東側から

 東側から見上げました

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栃木県大田原市、薄葉「高性寺のかや」(とちぎ名木百選・令和の名木選)です!!

2025-01-18 06:46:03 | 巨樹・大木
 薄葉地区は、大田原市役所の南西約7kmのところ

 大田原市役所南側の道路を東へ出ます、約200mで信号を右(南南東)へ、「市役所通り」です

 約900mの「神明町」信号を右(南西)へ、国道461号線です

 約800mの「美原」信号を左(南東)へ、「南大通り」です

 約200mの信号を右(南西)へ、「なんじゃもんじゃ通り」を進みます

 約5kmの「中薄葉」信号を過ぎて直ぐ右手に「高性寺」が南東向きで山門を開いています

 山門を入って広い駐車場に車を止めさせて頂きました

 門柱の「西光山」の山名と

 「高性寺」の寺名です

 仁王門を潜ってカヤを見ました

 北東側から

 とちぎ名木百選の標柱です

 案内板が二枚並んでいます、左側は「おおたわら令和の名木選」です
   *おおたわら令和の名木選
     高性寺のカヤ
 樹種  カヤ、   樹齢  約700年
 樹高  約20m、目通り 4.44m
   おおたわら令和の名木選 第6号 
   令和2年3月    大田原市

   *カヤ
 指定 昭和36年12月8日  薄葉高性寺境内
        所有者  高性寺
 樹高 21.5m
 目通り周囲 3.85m
 枝張り  16m
 推定樹齢  約700年

 *雌雄異株のイチイ科カヤ属の常緑針葉樹で,宮城県以南に分布します。
 成長は遅いが、寿命の長い樹木です。耐陰性が強く樹林内部であまり日のあたらないところでも育つことができます。
 実は直接煎って食べたり、食用油、薬用、駆虫剤、灯火油としても使われ、古くから寺社の庭木や、農家の庭先に植えられました。
 和名は「榧(かや)」で、根や枝葉を燻(いぶ)して「蚊遣り(蚊を追い払う)」に使ったからという説もあります。
 「高性寺のカヤ」は境内に一本のみ直立し、東側がやや樹勢の強い円錐形に繁っています。

 本堂です

 南東側から

 南側の駐車場から見ました

 今回は、ここまでとして埼玉へ帰ります
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