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カトリック清水教会
静岡市清水区岡町
ルシアン・ドラエ神父
戦中の清水空襲時には、聖堂を開放して戦災した清水の住民たちの保護に尽力したルシアン・ドラエ神父は、1884年(明治14年)9月18日フランスのブローニュ地方で生まれました。
ルシアン・ドラエ神父
戦中の清水空襲時には、聖堂を開放して戦災した清水の住民たちの保護に尽力したルシアン・ドラエ神父は、1884年(明治14年)9月18日フランスのブローニュ地方で生まれました。
パリ外国宣教会に入り、25歳の時、1909年(明治42年)に宣教師として来日。
最初は東京、八王子市、群馬県前橋市などの各地において伝道に従事した後に1914年(大正3年)にクレマン神父の後任として静岡教会主任司祭に就任します。
静岡市はもちろん浜松市、清水市(当時)、焼津市、藤枝市といった静岡県下の主要都市の各地を熱心に巡歴してカトリック思想の布教、普及につとめました。
やがて風光明媚な景勝地としても知られる清水の姿がかつて青年期まで過ごした故郷のフランス、ブローニュ地方にとてもよく似ていることもあり、清水の地に私財を投じて聖堂を建てるべく設計していたところ、1932年(昭和7年)にこれまでの彼の勢力的な活動に賛同した6代目鈴木 與平(よへい)〜県下最大の物流会社、鈴与の創業者が用地取得に便宜を図り、1935年 昭和10年にさらに船大工らが手を貸したことで、聖堂内部は木造ゴシック様式といった変わり種の建築。床には畳敷きに長椅子が置かれるといったユニークな設計が成されました。
ドラエ神父は太平洋戦争中も日本に留まり、1945年6月の静岡大空襲の際には、必死で教会を火災から守ったと伝えられており、戦後、いったんフランスに帰ったものの、再び日本に戻り、今度は伊豆地方の布教活動を開始し、余生を過ごした後、1957年(昭和32年)12月8日に72歳の生涯を閉じました。