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日本歴史紀行

現代語訳 徳川実紀 17  等膳和尚、竹千代君を諭す



増善寺 参道
静岡市 葵区 慈悲尾




等膳和尚、竹千代君を諭す


慈悲尾の森は、今川義元の父、氏親の菩提寺 増善寺の門前である。


安倍川から遠出をしてきた竹千代君は、鷹の獲物が多いこの森で鷹狩りをやると言い出した。


小姓たちは、寺は殺生禁断の聖地にございますと申しても聞く耳持たぬため、住持に許しを得ようと本堂へ走った。


やがて小姓が戻った。
増善寺の若い和尚を伴っていた。


~やれやれ、竹千代殿、臨済寺での行儀の良さは偽りでござりますか。~


竹千代君は顔を赤らめ目が点になった。


増善寺の若い和尚は等膳といい、臨済寺で手習いを受ける竹千代君に時折、勉学を教えた。多忙な雪斎禅師が寺に居らぬ時は、等膳が臨済寺に足を運び竹千代君の世話をなされた。


等膳は心を砕き竹千代君を諭された。

父母の愛に乏しかった竹千代君の心根を汲み、一度 岡崎に帰してはどうかと小姓頭と話になったが、今となっては三河は今川の西の橋頭堡と化したため、決して許されまいと気を落とした。

等膳は、私が竹千代君を葛籠で湊まで運びましょう。と進言された。

江尻湊で舟に乗せ、三河まで竹千代君を伴い、墓参をするという命懸けのものである。

今川の格式高い菩提寺の和尚がこの様なことがもし、露見したら重罪に処されるだろう。


慈悲尾の増善寺で手習いを受ける。
竹千代君の手習いのための外出は、誰もが知ることで、屋敷を空けていても不思議に思われない。

一方で、今川の菩提寺の和尚が協力したことで、竹千代君の密かな墓参は、駿府の者は誰も不審を抱かずに成功した。


~竹千代殿、次の墓参は元服が成された後で、堂々と帰られるがよろしかろう。~

~和尚、世話をかけた。~

墓参後、竹千代君は一層 手習いに励まれる様になられた。




等膳和尚は、後に三河 遠江の大守となった家康公に浜松城に召された席で居眠りしたことで、家康公は、和尚は我が愛児の如く安心して眠ることよ。と和尚の前では某は竹千代のままなのだと旧恩を懐かしみ、駕籠登城と10万石の破格の待遇をもって和尚に礼を尽くされた。
袋井の東陽軒の和尚だった等膳は、可睡斎と寺を改めた。




可睡斎 山門

可睡斎 本堂




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