奥州藤原氏 伽羅御所跡
岩手県西磐井郡 平泉町字平泉伽羅楽
1185年(元暦2年〜改元し文治元年)は、英雄 源義経にとって激動の1年となりました。
2月に八島の戦いで平家を四国から追い散らし、翌、3月に本州の果て、壇ノ浦にて平家を滅ぼす大功を立てたものの、宇治川の戦い以来、軍監 梶原景時ら、鎌倉武士との軋轢はつぶさに鎌倉に知らされ、これにより兄、頼朝の疑念を買い、5月には敵の総大将 平宗盛を連行したものの、腰越で足留めを喰らい、世に伝わる腰越状を認め、鎌倉入りを断念して京へ引き返し、6月には晴れの元服の地〜近江 鏡宿で平宗盛を斬首する役目を負い、10月には兄、頼朝が差し向けた刺客、土佐坊昌俊に命を狙われるも返り討ちにして兄弟は完全な破局を向かえました。
兄、頼朝を追討する院宣を朝廷より手にするも、政治、謀略に長けた頼朝にとって見れば、これは稚拙な手段となり、頼朝は父で関東では英雄、義朝の法要を楯に鎌倉武士を結束させ、終には兄、頼朝より発せられた義経追討の号令は鎌倉武士のみならず、上方の隅々に義経追討を浸透させます。
進退窮まる義経は主従と妻子、妾を伴い西国へ目指すも、西国行きは暴風雨により船団は難波して断念し、吉野山中に潜伏した義経主従でしたが、吉野の僧兵らに追われる様に逃避行は続き、義経は静御前と別れて京に潜伏。こうして英雄から逆賊へと転落した義経の元暦2年〜(改元し文治元年)〜1185年は終わります。
翌、文治2年、1186年。
京に潜伏し、熱(ほとぼ)りを覚ます中で、忠臣 佐藤忠信を失い武蔵坊弁慶ら、僅かばかりの供回りで都を落ち延び、伊勢、美濃、近江、越前、加賀と修行僧や稚児を装い逃れるも、世にいう安宅の関に知られる弁慶の勧進帳を読み上げる機転により関を切り抜け、越後より日本海に脱出。
義経主従が出羽国へ上陸も束の間、念珠ヶ関で稚児に変装した義経を見咎められ、弁慶が義経を討ち据えて見せ、関守の同情を買い難を切り抜けます。
出羽国から内陸に入った主従は陸奥国、栗原を経て、かつて義経が元服後に庇護された奥州 平泉へ逃れました。
2に続きます。