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日本歴史紀行

現代語訳 徳川実紀 50 清洲同盟 1



清洲同盟 1


織田信長は、今川義元を討ち取ったあと、永禄三年、五月二十一日に元康君が岡崎城へ入城したと聴き、元康君も織田方へお味方なさるだろうと思っていた。

されど、挙母(ころも)、梅坪、広瀬と、織田方に通じた三河の国衆を元康君が攻め入り、仕舞いには沓掛城下まで放火して帰っていったことは、思ってもみなかった。


信長は大いに怒って刈谷の水野下野守信元を呼びつけ、おのれの甥っ子の元康が首を討ち取って持って参れ!と厳命した。


六月十六日、信元は刈谷に近い横根村、石ヶ瀬に出陣し、元康と対したものの、小競り合いを繰り返した後に虚しく引き返した。
 

元康君は西三河のほとんどを平定せしめ、今川氏真に亡き義元様の弔い合戦を仕掛け、元康も先陣を務めましょうと使者を遣わしたものの、父の仇を討つ志し無く、酒色に耽り、三浦右衛門などという奸臣に目をかけ取り立て、譜代の老臣を疎遠にしたので、やがて上下の家臣が離反し、国政も日に日に廃れていった。

その後も出陣のことを度々勧められたが、氏真は酒宴乱舞にのみ耽って気にすることもなかった。

駿河の有り様も信長の耳に入ると、元康君を味方に引き入れようと画策し、伯父の水野信元を使者に言葉を尽くして礼を厚くして語ると、元康君も〜

【氏真殿も仕舞いには国を滅ぼすだろう…】
と思いになられた。












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