朝夷奈切通【あさいなきりどおし】
神奈川県鎌倉市十二所〜横浜市金沢区朝比奈町
坂東武者の都【鎌倉】
源氏と鎌倉との繋がりは、河内源氏の源頼義が奥州(東北地方)、安倍氏討伐の戦いとなった前九年の役(1051年〜)で、この地に石清水八幡宮を勧進して戦勝祈願を行ったのが始まりで、頼義の子、八幡太郎義家(源 義家)が後三年の役へ赴く際、父が勧進した社殿を修繕して信仰し、なお、この戦いは私戦であるとして朝廷からの戦費が獲られなかったことから、私財を投じて兵に恩賞を与えたことから坂東で声望が高まりました。
源頼朝の父、義朝も鎌倉に居を構えて勢力を蓄え、後に頼朝が鎌倉入りした際には、義朝と縁を交わした御家人達が加わり、鎌倉幕府草創の礎となりました。
鎌倉幕府の本拠地となった鎌倉は、三方を山に囲まれ、南に由比ヶ浜のある相模湾と、攻めるに難しく守るのに適した要害の地で、外界との交通は、切通【きりどおし】と呼ばれる山道でした。
朝夷奈切通〜鎌倉側
朝夷奈切通は、鎌倉幕府が、1241年(仁治2年) に鎌倉と六浦(むつら〜現在の横浜市金沢区)を結ぶ重要な交通路として、 山稜部を開削して建設した道路です。
幕府の歴史を記録した【吾妻鏡】には、1240年(仁治元年)に鎌倉と六浦を結ぶ山道を切り開くことが建議により決められ、幕府3代執権 北条泰時が自ら現場に出向いて馬に土石を運ばせる等をして工事を指揮したとあります。
当時の六浦には風を防ぐ天然の良港があり、 切通の開通により、幕府はこれを鎌倉の外港として利用することで東国や大陸との物流の拠点としました。
鎌倉市側の大切通
横浜市側の小切通
横浜市側の入口
朝夷奈切通の開通後、執権 北条泰時は、六浦側の地を弟の実泰に与えます。
北条実泰の子孫は以降 金沢氏を名乗り、鎌倉幕府滅亡までこの地を守ります。
六浦と朝夷奈切通は、 幕府と武家の都、鎌倉を政治的・経済的に支える重要な役割を果たしました。