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日本歴史紀行

街道紀行 2 東海道 品川宿

東海道 品川宿本陣跡

東海道 品川宿
東京都品川区


東海道は、1601年、慶長六年、関ヶ原の戦いに勝利して事実上の天下人となった徳川家康が五街道〜東海道、中山道、甲州街道(甲州道中)、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、の各街道の本格的な発足に先がけて整備を命じ、
江戸、日本橋から京、三条大橋【現在の東京都中央区日本橋〜京都市東山区】まで、五十三の宿場町(五十三次)、現在の距離にして約490キロありました。

東京都心では国道1号、15号(第1京浜)の多くの部分が旧東海道と並走する格好となります。
















品川宿本陣跡
品川区北品川2丁目
品川区立聖蹟公園




品川宿は起点となる日本橋から最初の宿場町で、旅人の見送りと出迎えの双方の人々が集う江戸の玄関口として大いに賑わいました。


北品川商店街

現在の京急北品川駅から青物横丁駅界隈がかつての宿場町の中心で、遊廓なども充実し、浅草の吉原と並ぶ遊ぶ歓楽街としての機能もありました。





土蔵相模跡
食売(めしうり)旅籠屋、奥座敷が土蔵造りだったことから、この名前となりました。
幕末の大老 井伊直弼を襲撃して桜田門外の変を起こした水戸浪士、英国公使館を焼き討ちした長州藩士、高杉晋作、伊藤博文らが常宿として利用していました。









問答河岸跡碑
品川区北品川2丁目

問答河岸は、かつて品川の海岸にあった波止場のことで、江戸幕府 徳川三代将軍 徳川家光公が北品川の東海寺を訪れた際、住持の沢庵和尚が品川宿の辺りまで出迎えた際、将軍家光公と禅問答をしたという逸話が【徳川実記】にあります。


家光公の
【〜和尚、海に近くして東(遠)海寺とはこれ如何に?】という問いに、

沢庵和尚は
【上様、大軍を擁しても将(小)軍と言うが如し】
と答えたと伝わります。

この駄洒落の様なやり取りに、時代はすでに盤石の徳川の世となっていたものの、将軍 家光公と沢庵和尚との着飾らない間柄を伺えるエピソードです。


東海寺
品川区北品川3丁目

東海寺 梵鐘

東海寺 世尊殿






沢庵和尚の墓
品川区北品川4丁目 東海寺大山墓地

沢庵宗彭(たくあんそうほう)
但馬国主、山名祐豊の重臣 秋庭綱典の次男として生まれ、山名氏滅亡後流浪の身となり出家、仏門に入る。聡明潔白さから多くの人々に支持され、大徳寺住持になる。石田三成が佐和山城内に創建した母の菩提寺、瑞嶽寺に師事した薫圃が入るため同行、関ヶ原の戦いに巻き込まれる。紫衣事件に際し、二代将軍 徳川秀忠に出羽上山に配流となるも、天海、柳生宗矩の熱心な働きかけもあり、徳川秀忠公逝去の折に赦免され、三代将軍 徳川家光公は沢庵に帰依。たくあん漬の考案者









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