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甲州街道 内藤新宿記念碑
東京都新宿区新宿御苑角
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江戸幕府が東海道や中山道など、日光、奥州、甲州と、五街道整備を本格化させたのは、江戸幕府初代 将軍の徳川家康の命によるものです。
江戸から甲府へと抜ける甲州街道は、徳川家康が征夷大将軍となった翌年の1604年慶長9年に本格的に整備が始まり、江戸城が外敵に襲われ、落城の危機に瀕した際は、搦手に位置する半蔵門から将軍を脱出させ、甲州街道を抜けて親藩大名の治める甲府城へと落ち延びる役割を持つ街道としての機能をもたせるべく整備されました。
甲州街道は、東海道や中山道と同じく、1里【約4キロ】ごとに目印と休息を兼ねた一里塚が設けられるはずでした。
ところが、甲州街道は、最初の宿場町が日本橋を基点とした位置から、4里(約16キロ)も離れた高井戸に設置され、人馬の提供を義務付けられている宿場として、高井戸の負担は他の宿場よりも大きなものでした。
街道整備から100年近くが経過した1699年 元禄12年、日本橋と高井戸の中間辺りに宿場を設置したい旨を、土地の名主や商人たちから上がり出し、宿場の候補地に上がったのが、現在の新宿1丁目から3丁目辺りの内藤でした。
内藤新宿の~内藤~は、信州高遠藩の内藤家の中屋敷がこの地にあったことに由来もので、初代 内藤清成は徳川家康から、【 馬で一気にに回れる土地を与える 】といわれ、清成の乗った駿馬は南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を一気に走り、広大な拝領地を賜りました。
ところが、8代将軍 徳川吉宗が将軍となり、享保の改革が推し進められ始まると、形式的に宿場の給仕として認められていた飯盛女による風紀の乱れや吉原遊客からの抗議などか重なり、わずか20年余りで内藤新宿は廃止されてしまいました。
新宿廃止から50年余り過ぎた1777年 明和9年、10代将軍 徳川家治の代になると、再び新宿の開設を願い出る動きと共に、幕府で実権を握る老中 田沼意次の政策が一致し、開設の運びとなりました。
【 内藤新宿 】の【新宿】は、江戸時代第一の宿場であった高井戸に対して、その中間地点にできた【新しい宿場】という説と、太宗寺周辺にあった人馬の休憩所【内藤宿】に対する本格的な新しい宿という意味で【内藤新宿】と名がついたという説が残っています。
内藤新宿は、江戸四宿の一つとして発展していき~四谷 新宿 馬の糞~という表現は、この街道がとても賑わい、物資の運搬などが盛んであった様子を示していて、現在の副都心、新宿を彷彿させるものです。
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