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日本歴史紀行

歴史紀行 82 ‐ 2 土佐坊昌俊 邸宅跡 2


土佐坊昌俊 邸宅跡
神奈川県鎌倉市雪ノ下


文治元年(1585年)10月
源頼朝が御家人らを集め、義経暗殺を告げて討伐隊の編成を語るも、御家人の誰もが応じません。

平家一門を壇ノ浦に滅ぼすに至り、奇襲、謀略、あらゆる戦術に長けた義経の戦いぶりを見てきた鎌倉の御家人たちは、義経に人知をも超えた畏怖の思いを抱いていました。

誰もが辞退し、躊躇する中、僧形の衆徒が名乗りを挙げました。

その衆徒の名は土佐坊昌俊。





乱橋跡
愛知県知多郡美浜町野間


土佐坊昌俊は
かつて頼朝、義経の父、義朝が平治の乱で敗れて落ち延びる道中、尾張 野間の地で長田忠致に欺かれ、湯殿で非業の死を遂げた時、凶報をみやこの常盤御前に伝えるべく、湯殿に近いこの橋で長田の郎党らを斬り伏せて脱出した渋谷金王丸の叔父にあたります。



土佐坊昌俊は元大和の興福寺西金堂の衆徒で、観音坊を名乗り狼藉を重ねる悪僧でした。


大和、針ノ庄の代官を年貢米のいざこざで襲撃し、大番衆として鎌倉から上洛した土肥実平により捕らえられたものの、実平と親しくなり、実平からは見所ありとして頼朝に近侍する様になりました。


間もなく平家追討の軍勢が出陣するにあたり、源範頼の軍勢に加わって九州まで遠征しました。


義経暗殺の計略に土佐坊昌俊は進んで買って出たものの、心残るは年老いた老婆と子供達の行く末を案じたため、頼朝は下野国、中泉庄に土地を与えて安堵させます。


昌俊は縁者の三上弥六、錦織三郎らに郎党83騎を率いて上洛の途につきました。


3に続きます。





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