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日本歴史紀行

八十八夜 寄稿 6 蓬莱橋


蓬莱橋ライトアップ




蓬莱橋

静岡県島田市 宝来町



1869年 明治2年 7月、江戸幕府 最後の将軍 徳川慶喜が謹慎のために水戸へ発ち、やがて明治新政府により謹慎か赦免されて静岡への道中を護衛してきた幕府 精鋭組【後の新番組】を中心とした幕臣らは、徳川宗家を慶喜から継いだ徳川家達が静岡藩主となり、新番組は ここで御役御免となりました。



旧幕臣達の身の振り方を考えていた勝 海舟は、広大な幕府領でありながら、耕作に不向きなため、何百年と放置されてきた金谷原【現在の牧之原台地】の存在を知ります。



勝は、新番組の一員の中條景昭らに金谷原での開墾と茶葉の栽培を持ちかけました。


中條景昭は、【死を誓って開拓します】と快諾し、景昭は統率力を発揮して開拓団を率いて不毛の台地、金谷原の開拓と茶葉の栽培に心血を注ぎます。


翌、明治3年4月、徳川家達は藩領の志太(現在の藤枝市)、榛原(現在の牧之原市)、小笠(現在の菊川市)へ視察に出掛け、その道中で大井川の堤防工事の視察に足を延ばし、金谷原の谷口原で開拓する中條景昭の住まいを訪ねました。

中條景昭は驚き、藩主 家達のお供として案内します。

家達は、視察の後の休憩で、お供をした景昭に、
【 農は里の宝、向こうの山は宝の山、皆で力を合わせ、宝の山を切り開けよ。】と谷口原を指し、景昭を激励しました。

景昭は厳しい環境の中、仲間達と力を合わせ、茶葉の栽培と台地の開墾を続けました。

明治も10年が過ぎる頃、開墾が少しずつ進み、農民達も何とか生活用品を買える程度になりはじめ、農民の一部から、渡河の度に危険な大井川を越えなければならないため、橋を掛けてもらえないかと、県令【現在の静岡県知事】に願いを出し、翌、明治11年12月に許可がおりました。

橋は急ピッチで作られ、1ヶ月余りで完成を見ました。

完成後、橋の名を命名するということになり、様々な意見が出る中、【藩候が谷口原を宝の山とおっしゃったことがある。それに因み、蓬莱橋にしたらどうか。】と言った者が出ました。

皆がそれがいいだろうと話がまとまり、明治12年1月13日、蓬莱橋が誕生しました。

話を切り出したのが、中條景昭だったかは定かではありませんが、景昭はさかのぼる明治7年に開拓の統率力を見込まれ、明治政府から神奈川県令【現在の県知事】を打診されましたが、わしの身は茶畑の肥やしにする。と言って誘いを一笑に伏しました。










現在の蓬莱橋


全長897.4メートル、通行幅2.4メートルの木造歩道橋として世界一の長さを誇り、平成9年にギネスブックに登録。現在も人々が往来します。



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