歴史紀行 13 小野妹子 墓所 (飛鳥時代)
小野妹子 墓所
大阪府南河内郡太子町山田
小野妹子(男性)は、近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市)出身の豪族の出で、推古天皇の摂政となっていた厩戸皇子(聖徳太子)に見い出されました。
太子の制定した冠位十ニ階により役人として大礼(だいらい、十ニ階の六番目)に昇進。
607年推古天皇15年、小野妹子は、遣隋使として隋国(現在の中国)に渡り、聖徳太子の認めた世に云う
【日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす…現代尺~太陽がのぼる日本国の天皇より、親書を太陽の沈む隋国の皇帝に贈る…。】
にはじまる親書を託され、隋国の煬帝(ようだい)皇帝に拝謁します。
聖徳太子が認(したた)めた対等な交流を望む親書でしたが、無礼千万と煬帝皇帝は激怒しますが、日本の望む仏法僧を妹子に同行させることは許し、翌年 帰国 。
妹子は落ち着く間もなく再度 遣隋使として隋国に渡りました。
小野妹子の生没年は伝わっておらず、帰国後の動静には謎が尽きません。
墓所は太子、推古天皇の眠る太子町に葬られました。
小野妹子は、太子の遺言により如意輪観音の守護を託され、坊堂を建てて朝夕に花を供えたことが華道 池坊の始まりとも伝わることから、現在の墓所は池坊により管理されています。
池坊の名は、太子が沐浴(もくよく)した池に因み名付けられました。