平 清盛 公像
京都市下京区七条御所ノ内本町 若一神社
清盛の誕生
平安時代の末期に、巧みな政治力と一門の団結力で武家ながら絶大な権力を手にした平 清盛の誕生の経緯は、1118年 永久六年に白河上皇が寵愛した祇園女御の妹に白河上皇の手がつき、懐妊した祇園女御の妹は当時、白河院の御厩司(みうまやつかさ~院の牛馬、輿の管理、御幸の警備を受け持つ)だった平忠盛が賜り、生まれた子が清盛とされています。
しかし、清盛を生んで2年余りで母の祇園女御の妹は亡くなりました。
忠盛を武家ながら昇殿を許した白河上皇の崩御後、同じく院政を継承した鳥羽上皇にも忠盛は寄進等で頼りにされ、内昇殿も許されるという待遇を得て、子の清盛も12歳の時に従五位下に叙任され、世に出ることとなりました。
祇園乱闘事件
清盛の名が一気に広まることとなった祇園乱闘事件は、1147年 久安3年 6月15日、祇園臨時祭に清盛が田楽を催していたところ、武装していた清盛の郎等に神職が武装を咎めたことから喧嘩となり、やがて郎等の放った弓矢が神殿に突き刺さったことから喧嘩は深夜まで大乱闘に発展しました。
この騒ぎを受けて、祇園社の本寺の延暦寺の門徒らが神輿(しんよ)を担いで下山し、忠盛、清盛 父子の厳罰を要求する強訴(ごうそ)を繰り返しました。
白河院政時代から門徒の強訴は、賀茂河の水、双六の賽、山法師と、天下三不如意として治天の君を謳歌した白河上皇さえ悩ます存在でしたが、鳥羽上皇は忠盛、清盛に対し贖銅(しょくどう~銅を納めて刑の執行を免れさせる)の処分にとどめ、この間、兵力を坂本に動員して門徒の下山、入洛を阻止し、出兵の際には上皇が閲兵して都が沸き上がるというパフォーマンスで門徒の動きを封じ込めました。
上皇は忠盛、清盛父子と組むことで財力を、忠盛、清盛父子は上皇の権力を借りて平家の力を武家の中で際立たせていきました。
保元 平治の乱
平家台頭のきっかけとなった保元 平治の乱は、天皇家と藤原摂関家、この二つがそれぞれ内部で激しく対立し、それぞれの勢力に武家がついて戦いとなりました。
保元の乱
藤原摂関家内の対立
白河院政時代、父の忠実が白河上皇の逆鱗に触れたことで子の忠通が関白となったことで、父子の間で対立していた父、藤原忠実と子の藤原忠通。
上皇が崩御すると復権した父、忠実は、溺愛する忠通の弟、頼長を氏長者とします。
頼長は朝廷内で左大臣、内覧(ないらん~天皇に奉ずる前に文書に目を通す重役)となりますが、厳格に職責にあたるため、悪左府の異名で周囲は次第に疎ましくなり、頼長は孤立していきました。
天皇家内の対立
白河上皇は、鳥羽、崇徳と、幼い天皇を続けて即位させ、その院政は40年以上にもなり、白河上皇が崩御すると、権力への執着も次代に引き継がれます。
白河院の孫 鳥羽上皇は、白河院の溺愛した崇徳天皇を、自分の后(璋子)と密通して産んだ子と信じ、叔父子と呼んで嫌って譲位を強要、近衛天皇を即位させ、近衛帝が若くして崩御すると、鳥羽上皇の四男、雅仁親王(後の後白河天皇)と崇徳上皇の子 重仁親王との皇位継承を巡り対立が激化、結果、皇位は雅仁親王が後白河天皇として即位。
天皇家、摂関家共に対立の火種を灯した時に鳥羽上皇が崩御します。
2に続きます。