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日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 6 ‐ 7 静岡県 菊川市 7




応声教院 山門

応声教院 【おうしょうきょういん】

静岡県菊川市中内田


応声教院は、855年 斎衡2年、比叡山 縁起の高僧 慈覚大師 円仁が文徳天皇の勅願寺として天台宗 天岳院として創建しました。


後の平安時代後期に、浄土宗の開祖、法然上人が人々のために桜ヶ池に身を沈めた恩師 皇円 阿闍梨 の菩提を弔うために天岳院を訪れた際に浄土宗に改宗し、応声教院と改名しました。


応声教院 最大の特徴は、鮮やかな朱塗りの山門で、この山門は1628年 寛永5年、江戸幕府2代将軍 徳川秀忠が生母 西郷局の菩提寺として創建した宝台院の山門でした。

理由は不明ですが、1918年 大正7年に応声教院に移築されました。




応声教院 本堂









熊谷直実 袈裟掛けの松跡 碑




片葉の葦 碑

熊谷直実 袈裟掛けの松跡 碑、片葉の葦 碑

静岡県菊川市中内田 応声教院 門前


応声教院の門前に源平合戦で平家と戦い、その無情さを感じ出家した坂東武者の足跡があります。



平安時代末期の武将 熊谷直実は、元々は平家方の坂東武者でしたが、源 頼朝が挙兵すると源氏方につき、戦の無常を感じながら一の谷の戦い、いわゆる鵯越の奇襲で源 義経らと共に平家方を追い詰めました。

この戦いで直実は平 清盛の甥、平敦盛を討ち取る大手柄を立てます。

平家滅亡後、直実は戦いの無常と所領争いによって生じた醜い武士という生き方に嫌気が差しました。

戦後、所領争いを吟味する場が設けられ、源 頼朝が列席する中で自分の髻を切って投げ捨てて その席を立ち、武将としての生き方を捨てて逐電し、浄土宗開祖、法然の弟子となり、蓮生と名乗り仏門に入りました。

熊谷直実袈裟掛けの松は、直実が師、法然の師匠にあたる皇円阿闍梨ゆかりの応声教院へ立ち寄る際に袈裟を掛けた松がありました。


片葉の葦 碑

片葉の葦は、直実が袈裟を掛けた松の周辺に馬を繋いでいたところ、馬は葦の片方ばかり食べてしまいました。

その後、生える葦は片葉ばかりになってしまった伝説から 石碑を建立し、今日に伝わります。





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コメント一覧

aoikitakaze4390031
@kikokikonoriko19888888 おはようございます。
須磨寺での敦盛の一部分を思い起こす場面です。
童同然の若武者の首を搔いて獲た手柄も、その後の醜い所領争いに嫌気が差し、仏門に帰依した直実の心は救われたのかは不明ですが…。
kikokikonoriko19888888
背を向けるとは、、、卑怯なり、、、直実の呼びかけに
振り返って敦盛は、応戦した、
直実は敦盛がまだ,、紅顔の少年であるのを知ると
その命を取らねばならなかったことを、
生涯悔いて 仏門に入った、、、というこの物語は、
舞台にもなっていますね。
日舞を習っているとき、踊りにもなっているので、
直実の心になって、、舞台を務めるという、、、
戦争の空しさ、、、武力で権力を得ることのむなしさ、
人の道としては、、、敦盛の菩提を弔う気持ちのほうが
正常だと思いますね。直実の心は、、仏門に入るということで、救われるほど、、、小さな心の傷ではなかったでしょうね、源平盛衰記から、、、名所旧跡が生まれていますね。一度行ってみたいですが、、
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